第169話 神に架ける箸「イクパスイ」
☆はしがき
縁あって、アイヌ民族舘の舘長さんから「祭祀用のイクパスイ」の写真を頂いた。その御礼を申し上げているうちに、「近々、虎ノ門の文化庁で会議があるため上京する」とおっしゃる。もっと詳しいことを知りたかった私は、「お会いできないか」とお願いしたところ、ご快諾してくださった。
イクパスイについては、かれこれ5年ほども前から知りたいテーマであったが、ここにきてなぜか一気にその機会が訪れたのは、何とも嬉しいかぎりである。
製作:(財)アイヌ民族博物館・山道陽輪氏
製作年月:1012年10月
材料:ノリウツギ
寸法:長さ33.0×幅2.67×厚さ0.55cm
【祭祀用のイクパスイ☆写真提供:(財)アイヌ民族博物館】
☆イクパスイについて
そのイクパスイとは?
館長さんの話はこうだった。
アイヌには寺社のような建物はない。自由に祭壇が設けられて神事や儀式が執り行われる。そのときには必ず奠酒の礼が行われ、その際の人間の祈りはそのままでは神に伝わらないとして、人間と神との間を媒介するイナウ(木幣)と、イクパスイ(一本箸)とツーキ(杯)が用いられる。
どういう形式かというと、左手に台付のツーキ、右手にイクパスイの一端を持ち、一方の端を杯の酒に浸し、リズムを取るように揺らすイクパスイに言葉を乗せて、神々の使者となるイナウに祈りを伝える。そのためにイナウに軽く触れるように振りかけて最初の一滴を神に捧げるのである。
舘長は「イクパスイは人の言葉を正し、足りない言葉を補う雄弁な道具。鳥の囀りは、美しく。また人は舌がなければ、話ができない。イクパスイは生き物だ」とおっしゃる。
イクパスイを見てみると、その先端部は鳥の嘴のような形をし、裏にはパルンぺ(舌)と呼ばれる小さな刻みがある。
もしかしたら、イクスパスイは鳥の嘴の化神だろうか。
私は昔よんだ『アイヌ神謡集』の中の「梟の神が自ら歌った謡」を思い浮かべた。
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」。
何ときれいな詩だろう。銀の滴、金の滴とはイクパスイからイナウへ伝わる神の滴ことではないだろうか。
「言葉」というのは、人とのコミュニケーションより、神との対話の必要性から生まれたのではないだろうか、と思うことがある。なぜなら、あの「漢字」でさえ中国殷の時代に神と会話するために発明されたという。それが後の周の時代になって人の間のコミュニケーションとして使われるようになった。だとしたら、「言葉」も祈りのための呟きや願いが最初だとしてもおかしくない。そのとき人類の祖先は獣の鳴き声より、鳥の囀りに感得し、鳥の嘴を神への架け橋とみたのだろう。もちろんこの場合の神とは、太古のことであるから自然の神である。
だから、一本の箸「イクスパスイ」の先には、自然と共にある「本当の人間の道」が見えるような気がしてくる。
☆あとがき
「本当の人間の道」という言葉は、アメリカ大陸のスー族の人が、映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」の中で言った台詞である。
舘長のお話に耳を傾けているとき私は、それを思い出した。あれは20年ぐらい前に観たケビン・コスナーの映画「Dances with Wolves」だった。
館長と別れて帰ってから、私はDVDの「ダンス・ウィズ・ウルブス」を見直してみた。
思い出せば、その年(1990年)は、2本の映画が話題になっていた。「Dances with Wolves」と「Ghost」である。
「ゴースト」の内容はラブロマンスであり、サスペンスであり、ファンタジーであり、ホラーでもあるという実に楽しく、素晴らしい映画であった。その上、BGMの「Unchained Melody」もいつまでも耳に残る曲だった。私は「こんなに面白い映画が創れる監督がいるのか」と舌を巻いたものだった。もちろんアカデミー賞候補のナンバー1だった。
ところが、その年のアカデミー賞は接戦の末「Dances with Wolves」の方が選ばれた。私はさっそくその映画を観に行った。
「Ghost」は最高傑作であったが、「Dances・・・」はアカデミー賞に値する名作だと思った。人にモノの見方や人生感を変えるような力があったからである。
同じように、一本の箸にもモノの見方を変える力があると思った。それが「イクパスイ」だった。
参考:アイヌ民族館長・野本正博さんのお話、里幸恵『アイヌ神謡集』(岩波文庫)、ケビン・コスナー監督「Dances with Wolves」、ジェリー・ザッカー監督「Ghost」、 箸シリーズ(第169、168、163、156、115、28、13、2話)
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕