第179話 1月12日 爼板開き
季蕎麦めぐり(十三)
毎年1月12日、上野の報恩寺で「鯉魚料理規式」、別名「爼板開き」が行われる。
元々、このお寺は性信坊という親鸞の直弟子が下総国横曾根(水海道)に開いたものだが、それが1602年 ― 江戸開府直前に江戸へ移ってきた。
鯉魚料理規式の謂われは性信坊の時代の伝承によるため、鯉はわざわざ水海道の報恩寺から運ばれてくる。もう800年ちかくも続いているということになるが、それが鯉であるところが重要である。どういうことかというと、日本人が肉食から魚食へ変換したのが中世だった、ということを象徴するのである。だから、中世では鯉が最も高貴な魚とされていており、それ故の鯉魚料理規式なのである。
規式で使われる鯉は驚くほど巨きい。それに爼板も大きい。蕎麦切用切板の3倍はある。大きいから、支えに脚も付いている。爼板の歴史を見てみても、大型から小型に変化してきているから、古の爼板はこんなものだったのだろう。
規式は四條流庖丁儀式に則って行われる。四條流というのは、和料理の祖のようなもので、見ていても「先ずは〝切る〟ことが料理の基本だ」といわんばかりに、直接手で触れることなく、金箸と庖丁だけで切って行われる。
本日の次第は「洗鯉」「長命の鯉」の二つであるが、「長命の鯉」とは文字通り切った鯉の一片一片が爼板上に「長」と「命」の字形に並べられるのである。そのために爼板は大きいのかもしれないが、その字形を笑ってはいけない。わが国においては言葉遊びと儀式と神事は紙一重なのである。鏡餅は「代々(橙)喜ぶ(昆布)」と言葉に縁起を求めて飾っている。また仲間の「マダム節子の新春そば会」では、「ぎんなん、いんげん、だいこん、にんじん、れんこん、にしん、はんぺん」の七つのン(運)を七福神とシャレて供された。
それにしても、なぜ庖丁ショウを行うのか? それは殿に見せるため、である。
和食の基本は室町時代にできたという点については異論はないだろう。その料理を「本膳料理」という。茶や華や能、連歌とともに武士の教養とされ、発達したのである。1489年、土岐氏の庖丁人であった多治見貞賢が『四條流庖丁書』という式法を書いたのも、こうした背景からであった。
臣下たちは各々に庖丁人たちを雇って主君を自邸にお招きし、まるで蕎麦打ちでも見せるように、庖丁式を見せての祝宴をもった。とくに将軍にお越し頂くことを「御成」といい、将軍の行事のひとつであった。
これを利用して、かの赤松満祐(1381-1441)が足利6代将軍義教(在位1428-41)を暗殺したことは、史上あまりにも有名である。考えてみれば、自邸に招いて門を閉めてしまえば袋の鼠、危険なことは当然であるが、御成は将軍の公式行事、まさかそんなことが起こるはずがない、それに義教は「魔将軍」と呼ばれるほどの強権政治を敷いていた。それゆえに暗殺などありえないというのが、当時の常識であった。それを破った赤松満祐だからこそ、「応仁の乱を引き起こした男」と指摘されるのである。
話を戦国の乱世に及べは、横道に入りすぎるので、このくらいで止すとして、室町時代の、「庖丁」を基本としての「本膳料理」、そしてそのご披露のための「御成」の影響は大きかった。
先述したように、本膳料理からわが国は魚が副食となった。そしてこの時代から和食は割主烹従、つまり一に割(切る)、二に烹(煮る)が基本となり、そして切る料理の発達が食べる際には箸だけで済むようになり、匙が膳から消えた。さらには「御成」の影響、つまり宴は臣下が上司を招くところから、食べ方は上司の意のままとなり、わが国では宴会における食べ方の作法が発達しなかった。
こうした歴史事実が、今日の庖丁式の中に組み込まれているのである。
ところで、足利義教といえば、尾張一宮の妙興寺にその肖像画が残っている。1432年に義教が、寺に立ち寄った縁からである。
そして、妙興寺は東向島「長浦」の寺方蕎麦のふるさとである。
室町時代の庖丁式を見た後だ。あやかって妙興寺蕎麦でも頂こうか、と私は伊藤汎先生(江戸ソバリエ・ルシック講師)のお店「長浦」に向かった。
参考:ほしひかる「小説『四條流庖丁書』(日本そば新聞)、
蕎麦談義 (第179、74、73、72、43、41、11話)
季蕎麦シリーズ(第179、173、156、155、152、149、145、143、140、136、131、130、129話)
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕