第182話「農ハ根ナリ」

     

食の思想家たち 十一、喜多川守貞

 『守貞謾稿』という江戸時代の本がある。江戸研究家の必読書のひとつだ。作者の喜多川守貞は本姓石原氏、1810年 (文化7年)に浪華で生まれた。それが1840年(天保11年)に江戸へ移って来て、北川家の養子となった。それ以前には、守貞は播磨国姫路の酒井家に舅の小島屋彦兵衛と共に出入りしていたというから、その縁筋で江戸へ来たのかもしれない。

 筆名の喜多川守貞は、もちろん本名の北川正兵衛守貞による。北川家は砂糖商だったというが、定かではない。

 守貞は関西に住んでいた1837年(天保8年)から『守貞謾稿』の筆を取った。徳川11代将軍家斉から12代家慶に代わった年だったが、3年後に江戸に移ってもなお江戸後期の風俗、事物について書き続けた。おそらく筆マメの守貞は、近畿と江戸の事物風俗が異なっていることに目を奪われ、その記録に夢中になったのだろう。九州出身の私も、西日本と東日本の違いに「日本は二つのクニで成っている」と思うことがあるが、その比較は大いに勉強になっている。

 ともあれ、守貞は1853年(嘉永6年)にいったん記述を編集した。しかし、その年はペリー率いる黒船が浦賀へやって来た年だった。巷ではもっぱらアメリカとの戦争が始まるとの噂が広まった。守貞は戦難を避けるために書き貯めた原稿を諸財とともに川越の親類に預けたが、幸い外国との戦乱は起きなかった。

 1867年(慶応3年)、守貞は再び原稿を整理して、『守貞謾稿』を上梓した。 起稿からちょうど30年、それは最後の将軍慶喜が15代に就いたころだった。守貞は人生を賭けて大作を世に遺したのである。

  さて、その『守貞謾稿』であるが、むろん江戸蕎麦学の教科書のひとつでもある。

 蕎麦屋の始まりがけんどん蕎麦だったらしいこと、江戸蕎麦切は諸国が及ばないほど盛んだったことなども記されている。

 ただ、現代の百科事典は専門家が分担して解説するが、この『守貞謾稿』は何せ一人の手による作業である。当然疎い分野もあるだろうから、一級資料ではあるが、割り引いて利用しなければならない点はある。

 しかしながら、ソバリエの私から見て、喜多川守貞の観察の中で一番光っているのは、「奈良茶、皇国食店の鼻祖とも言うべし」と断言していることにあると思う。つまり、日本史上最初のレストランは茶漬屋だと言っているのである。

 茶漬屋という飯店が先に生まれたからこそ、今度はけんどん蕎麦という麺店が生まれることができたのである。

 それからもうひとつ。守貞を思想家として採り上げる理由は以下の言葉である。

― 四民及び遊民を樹木に比するに、農は根なり、士は幹なり、工商は枝葉、遊民は華にて、蛮夷は鳥に比せん。鳥多く群棲せば樹を痛むべし。又、工商遊民の分外に多きは枝葉の繁り過たるごとく、透さざれば風に倒る。蓋土痩て根を顕はす木には培養せざれば枝葉は切る透してもあるいは倒れ、あるいは枯るなり。根だに土肥へ蟠延せば、枯れ倒るるの患なし。―

 今でいう「百科事典」の著者守貞は、30年間社会を凝視していたであろう。すると、守貞の眼には、消費者人口の増大と生産人口の減少による、需給バランスの不均衡が映るのであった。それゆえに彼は将来を憂慮して「農は根なり」と説くのである。ただ守貞が言った「農」とは「農民」のことである。これを現代の目で見れば、農民は単なる農民ではなく「農業経営者」ということに変わってきているのであろうが、とにかく守貞は農業従事者の減を憂いた。

 だが、現代ではさらに危機的状況が加わった。

 そう、21世紀においては、日本の国土から土がなくなっているのである。世界で比較すれば、日本ほど豊穣の土に恵まれた所はないというのに、日本人は「歩きにくい、草木がうっとうしい、車が汚れる」と言って、足元の土をコンクリート化して殺し、道路、マンション、駐車場・・・を作っていった。

 だから、守貞が言うところの「農ハ根ナリ」を大きな視点で理解し、支援するためには、先ず足元にある土に目を向けて、われわれが土を愛することを知らなければならない。

 なぜならば 、「農=人+」という真理は絶対である。

 われらの江戸ソバリエ宣言《蕎麦の花 手打ち 蘊蓄 食べ歩き いきな仲間と楽しくやろう》でも、頭に「蕎麦の花」を置いたのは、その思いを景色で描いたからである。

 

参考:川崎市民ミュージアム「奈良茶」、

「食の思想家たち」シリーズ:(第182 喜多川守貞、177由紀さおり、175 山田詠美、161 開高健、160 松尾芭蕉、151 宮崎安貞、142 北大路魯山人、138 林信篤・人見必大、137 貝原益軒、73 多治見貞賢、67話 村井弦斉)、

〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる