第198話 コンプラ醤油瓶
昔、長崎にコンプラ醤油というのがあったことを知ったのは井伏鱒二の文章を読んだときだった。
井伏は名前に「鱒」の字を使っているだけに釣が大好きで、釣のことをよく書いているのは有名だ。
でも、『珍品堂主人』という小説では主人公に蕎麦打ちをさせているし、蕎麦にとって欠かせない山葵や醤油に関する作品『ワサビ盗人』や『コンプラ醤油瓶』なんていうものも書いているから、蕎麦についても関心を寄せていたのではないかと思われる。
さて、コンプラ醤油のことであるが、それは幕末のころ長崎のコンパニー会社がオランダと貿易していたころの輸出用の醤油であり、井伏が書いたのはその容器である波佐見焼の三合徳利のことであった。
その後、私は日本橋の醤油会舘とか、キッコーマンの展示室とかで「コンプラ醤油瓶」を見かけたので、その度に井伏の『コンプラ醤油瓶』に書いてあることを思い出したりしていた。
それによると、徳富蘆花(1868-1927)がトルストイ(1828-1910)に会ったとき、邸の書斎にコンプラ醤油瓶が置いてあって一輪差にしていたという。しかもその醤油瓶は、ゴンチャロフ(1812-91)が日本にやって来たとき、川路聖謨(1801-68)にもらい、ゴンチャロフはトルストイに上げたにちがいないとまで推定している。スゴイ話である。私はすっかり「コンプラ醤油瓶」に魅了されてしまった。
それからしばらくしたある日のこと、神保町の古本屋で井伏が引用した蘆花の『順礼紀行』を見つけたので、購入して、読んだ。
ところがである。
蘆花は日露戦争(1904-05年)後の、明治39年(1906年)6月30日から7月5日まで、ロシア・トゥーラの南西12kmヤ―スナ・ポリヤーナ村のトルスト邸で世話になっていて、トルストイ翁の書斎にも入っているが、紀行文を何度も読み返してみても、「コンプラ醤油瓶」の文字は一文字もない。代わりにラファエロの「システィーナの聖母」の幅が5枚掲げてあったと記録しているだけである。このとき翁78歳、蘆花38歳。
私は「やられた」と思った。『コンプラ醤油瓶』は井伏のエッセイではなく、小説だったのである。
しかし、その「やられた」は「快なり!」が伴っていた。なぜなら、読む人にロマンを与える、これこそが文学ではないか。それからの私はますますもって「コンプラ醤油瓶」に焦がれてしまった。
ところで、私は訳あって毎月九州の実家に帰っている。ある日のこと市内を歩いていたら、チョーコー醤油(本社:長崎市)の佐賀支店のビルがあった。何気なく窓を見ると、何とコンプラ醤油瓶が飾ってあるではないか。驚いた。「こんなところに君はいたのか」と声をかけたいくらいであった。しかしよく考えると、もっている歴史からいって、東京なんかより、むしろ佐賀・長崎で見かける方が自然である、と一人で合点して、佐賀支店長さんに面会を申し込んだ。
縷々お話をうかがって他の写真も頂いた。そして飾ってあるコンプラ醤油瓶を何度も振りながら、その会社を辞した。
【コンプラ醤油瓶、写真チョーコー醤油】
井伏鱒二の『コンプラ醤油瓶』を読んでから、七、八年は経つだろう。以来、彼女は段々と私に近づいてきているような気がする。というような、夢をいだくことの楽しさを知った。これも井伏鱒二の『コンプラ醤油瓶』のおかげだろう。
参考:井伏鱒二「コンプラ醤油瓶」(『文人の流儀』角川春樹事務所)、徳富健次郎『順礼紀行』(中公文庫)、
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕