第199話 ソバリエ画伯のこと
ここはお江戸日本橋。といっても昭和通りを超えた3丁目、辺りはビジネスビルが犇めいている。その一角に「藪伊豆」がある。定期的に落語会を開催している蕎麦屋として好き者の間では知られている。
3階の座敷に上がると、その落語会が先刻まで催されていたらしく、朱色の大きな座布団がデーンと鎮座している。
今日は江戸ソバリエうずらの会の加藤さんや安原さんたちが音頭をとって、伊嶋みのるさん(江戸ソバリエ・ルシック)の出版記念会が開かれた。
本の名前は『墨絵で描く江戸蕎麦屋』。伊嶋さんがこれまで食べ歩いた蕎麦屋さんのうち、首都圏の店71軒の墨線画が載っている。
その「まえがき」は散文詩のようで、素晴らしい。音楽家が文章を書くと詩になる。画家のそれは散文詩になるという。だから、いかにも墨線画家の伊嶋さんらしい文章だということになるが、そこにはこう書いてあった。
「好きな蕎麦屋を食べ歩いているうちに絵を描きたくなった。」
そう。私はそれが人生のノウハウだと思う。
1)自分ができることを自分が好きなことにぶっつけること。伊嶋さんは絵が描ける。だからその能力を蕎麦にぶっつけた。つまり、食べ歩いた蕎麦屋さんを描き続けたのである。
それからもうひとつある。ある講演会で麺の学者石毛直道先生がこんなことをおっしゃった。「70歳代になったら、これまでの著作をまとめて全集を出すべきだと、先輩から云われた。だから、この度私も全集を刊行した」と。学者はそうだろうけど、われわれは「全集」というわけにはいかない。
3)ただ「70歳代になったら、これまでの何かをまとめるべきだ」というのは、人生における輝くようなノウハウだろう。伊嶋さんのこの度の出版がそれだ。
そしてほぼ出版の準備が終わるころ、伊嶋さんと蕎麦を食べた。そのとき彼から「帯に何か書いてくれ」と頼まれた。伊嶋さんの場合は書かなければならないことは決まっている。だから「この本には人生において大切な事がいっぱい詰まっている」との思いを表現する文を書いてみた。
というわけで、世の中で一番大切なことを忘れてはいけない。まとめるに当たって、伊嶋さんが私のような駄文を書く者にも「何か書いてくれ」と言ってくれたことである。
つまり、2)誰かを立てること。伊嶋さんにその気持があるから、今宵30名ちかくもお祝にかけつけたのである。
最後に皆で記念写真を撮ったが、どなたもいい顔をされていた。これも日頃から伊嶋さんが先を立てることを忘れないからだろう。
参考:伊嶋みのる『墨絵で描く江戸蕎麦屋』(文芸社)、
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕