第200話「食材、道具、料理法、食べ方がセットになって」

     

食の思想家たち十八、伊藤汎先生

 

 「食材道具料理法食べ方がセットになってはじめて、食は定着する」と私の先生である伊藤汎先生(「長浦」当主)に教えられた。

 われわれのことだから、当然ながら蕎麦から見ての文明論であるが、伊藤先生の話は「碾臼の伝来」について語り合っているときだった。

 食材としての蕎麦は古くからあった。元正天皇(680-748)の詔で、蕎麦栽培を奨励していることからもそれは分かる。しかしそのころは、麺ではなく、蕎麦の実を食べていた。なぜなら、麺すなわち蕎麦の実を粉にする道具「碾臼」がなかったからである。

 「碾臼」をわが国に伝えたのは留学僧の円爾(1202-1280)だとされている。

 円爾は1241年 ― 北条3代執権泰時のころ ― 宋国から帰国した際、現地で描いた水車と碾臼の絵を持ち帰った。それが今も彼が創建した京都東福寺に寺宝「水磨の図」として遺っているところから、円爾の碾臼持参説は確実視されている。

 現に、1261年の「力王丸田畠家財譲状」に碾臼の記録があり、以後1332年、1425年、1450年の日記にも、「碾臼」の記載が見られ、わが国における、碾臼の利用も一般的になってきている。

 よって、円爾後からわが国は粉文化が始まった。蕎麦もその中の一つである。換言すれば、円爾によって日本は「アジア麺文明圏」に組み込まれたのである。

 この定理を伊藤先生は、「日記」を研究することによって得られた。それが先生の凄さである。

 当然ながら、研究は論理的でなければならない。簡単にいえば「証拠」がなければならない。

 これについては、ここから少し硬い内容になるが、研究の証拠資料を採用するとき「第一級資料」という言葉がよく用いられる。つまり、著者などが知識人として評価されている場合などは第一級資料と判断される。その他に、辞典関係の書物も第一級資料である。しかし、それらは本当に第一級資料であるか? という視点ももたなければならない。

 たとえば蕎麦界においては、俳諧師が編集した俳諧のための『毛吹草』や、辞典の一種といえる『料理物語』なども第一級資料とされている。

 そのせいか、俳諧師が耳にした「蕎麦は信州で始まると云う」のメモが千乗で広がった。しかし、この本は俳諧の本である。俳諧のことは信用できるが、専門外の他の記載はどうだろうか。われわれは胃痛が起きたとき、たとえ第一級の名医であっても眼科医には診てもらわない。

 また、辞典類は古・今、東・西、大・小の要件を篩で落としたものを同じ卓の上に列記するものだ。だから記載事項は事実であっても、いわゆる「5W1H」が消去されてしまった雑学、といってしまっては失礼になるだろうか。

 われわれは『広辞苑』に記載されていることを振りかざして説明することはあまりしない。ところが、研究となると辞典類に記載されていることを振りかざして論を張る傾向が多いにある。

 その点、伊藤先生はどうされたか? 先生は「日記」に注目された。「日記」は嘘をつかない。その上、公卿が書いた「日記」か、僧侶が書いたものか、武士が書いたのか、町人かによって、その事との関わりが理解できる。 

 「日記」を研究することによって、伊藤先生は歴史の真実を見抜かれたのである。

 

 さて、これで食材(蕎麦)と道具(碾臼)がそろった。あとは料理法=麺作りであるが、「法」というのはモノとして残るものではないから難問だ。

 しかしながら、「円爾後」の室町時代にソーメン、うどん、蕎麦などの麺文化が興っていることは史料の上から明らかに認められるし、それが現代まで続いているのも事実である。だから、誰かが麺の作り方を教えたことはまちがいない。

 その疑問を解決するのは一般的には「証拠」であるが、それがなければ一流の小説家のような「推定」が有効である。

 円爾の周辺にある多くの伝説がその材料となる。たとえば、

◎帰国直後の博多には、円爾がさまざまな技術を伝えた話が残っている。

 1)円爾が栗波吉右衛門に宋で覚えた饅頭の作り方を教えた。

 2) 円爾が創建した承天寺では、「円爾は、羊羹、饅頭、うどん、蕎麦の祖」として伝えられている。

 3)円爾と共に入宋した満田弥三右衛門が博多織を伝えた。

 4)博多祇園山笠は、円爾の疫病退散祈祷(一種の医療技術)から始まった。

◎円爾が京で創建した東福寺では、麺類関係の伝説が残っている。

 5)円爾の命日(10月17日)にソーメンと大根が供えられる。

◎円爾の故郷静岡では、碾臼利用関連の言い伝え、つまり円爾が「静岡茶の祖」とされている。

 これらの伝説は、円爾一人に集約されすぎているとはいえ、留学僧、渡来僧が様々な技術をもたらしたことの状況証拠と考えられる。なぜなら、多くの文明は、椰子の実や黄砂などの自然物の漂流とちがって、人が意識して選択し、運んでくるものである。

 だから、彼らは異国の地で遭遇して驚き、感動した事 ― 碾臼を回すと茶や穀物が粉末になる、その粉を水で捏ねると麺になる、それを茹でて箸で食べる ― を母国にも伝えたいと思ったことは十分想像される。

 話は変わるが、2010年に和食文化(蕎麦)を紹介するためにサンフランシスコへ行ったことがある。その年は咸臨丸遣米150周年に当たるということから、現地でなくなった咸臨丸乗組員の墓詣りをした後に、日本総領事館で蕎麦打ちを披露した。咸臨丸乗組員の面倒を見てくれたチヤールス・ウォルコット・ブルックス(Charles Wolcott Brooks)が、後に初代サンフランシスコ駐在日本国領事に任命されたのであるから、咸臨丸遣米150周年には最も相応しい会場であった。蕎麦打ちは寺西名人、そして私が説明をした。

 説明しながら私は、伊藤先生の言葉通りだと思った。「食材と道具と料理法と食べ方がセットになって・・・」。

 まさに、それを伝えなければ食文化は定着しないだろう。

 

 

【サンフランシスコ日本総領事館において蕎麦打ちのデモンストレーション】

 

「食の思想家たち」シリーズ:(第200伊藤汎先生、197武者小路實篤、194石田梅岩、192 谷崎潤一郎、191永山久夫先生、189和辻哲郎、184石川文康先生、182 喜多川守貞、177由紀さおり、175 山田詠美、161 開高健、160 松尾芭蕉、151 宮崎安貞、142 北大路魯山人、138 林信篤・人見必大、137 貝原益軒、73 多治見貞賢、67話 村井弦斉)、

 

 〔「Tokyo Soba Meister Kanrinmaru」団長 ☆ ほしひかる