第202話「暑中 献上 寒瀑蕎麦」
― 献上品からブランドへ ―
「時献上、五月三日 御盃台、三月 鮒鮎、五月 氷餅、暑中 寒瀑蕎麦、御礼干鯛、五六月内 巣鷹、寒中 雉子」。
1852年刊の『大成武鑑』(出雲寺刊行)という史料にそう記してある。
『武鑑』とは、大名、幕府役人の名鑑のことである。
「本国、系図、家紋、名前、江戸城での殿中席、領知高、居城地、家督相続の時期、叙位任官の時期、内室や嫡子の名前、参勤交代の時期、時献上の品目、江戸市中での行列具、江戸の屋敷地、菩提寺・・・」などが、親切にも紹介してある。たとえば、これから○○藩の△△家のお屋敷を訪ねようとするとき、前もってこれに目を通して一口知識を入れておけば失礼にはならない。
というような、ある種の秩序を知ろうとする人々のニーズに応えて民間出版社が刊行したもの。最初は『本朝武鑑』というのが1685年に発行されたが、そのうちに須原屋、出雲寺などの大手が参入するようになった。今ある、○○名鑑、△△年鑑、××図鑑といった「鑑」物の由来はここら辺にある。ちなみに、須原屋、出雲寺は明治のころになくなったが、過日浦和を歩いていたら「須原屋」という本屋があった。うかがってみると、江戸時代の須原屋の流れをくんでいるというから、驚きだ。
「献上」というのは、諸大名が幕府に「宜しく」と領地の名物などを文字通り献上することであるが、この場合あるていど定例化しており、時献上、参府献上、臨時の献上などに分かれる。
「参府献上」とは参勤交代の手土産。臨時の献上は冠婚葬祭。
「時献上」は 季節のご挨拶だ。「季節」とは、正月の盃台、若菜(初子の日→七日の行事)、上巳(3/3)、端午(5/5)、暑中、七夕(7/7)、八朔(8/1)、重陽(9/9)、初雪、歳暮。このうちの「暑中」とは夏の土用の18日間。ちょうど今ごろだ。
要するに『大成武鑑』には、高島藩の諏訪家は「暑中に、寒瀑蕎麦を献上することが通例となっている」と紹介されているというわけだ。
他の時献上品のうちの、「御盃台、干鯛」の献上というのは儀礼的な行為であるが、「鮒鮎、氷餅、寒瀑蕎麦、巣鷹、雉子」は高島藩の名産品献上であろう。たとえば、巣鷹というのは鷹の雛のことである。鷹狩りの鷹は雛のときから訓練するものであり、またかつては諏訪流鷹匠が活躍していたことを思えば、このわずか「巣鷹」の二文字のそこには深い物語があったであろうことは十分想像できるし、おそらく他の献上品にしても然りであろう。
ただし、小生が時折指摘するように、事典類は事実を記載しているが、5W1Hが篩い落とされているので、詳細が分からない。
その点「日記」には生の情報が書いてある。どこかに、これら「献上品」、あるいは「寒瀑蕎麦」について記されたものはないか? それがあった。『郡方日記』という。郡方とは、郡奉行配下の小役人である。彼らは嘘は書けない。だから、1789年9月25日の筆記 ―「これまで漬蕨が献上品だったが、その年から寒瀑蕎麦に替わった」というのは真実である。
ここで、「献上」行為を理解するために、献上略史をざっと見てみよう。
・1688-1704年頃、元禄期の生類憐れみの令に関わり、一時期、鳥類・海産物の献上が禁止され、代替品におき換えられる。
・1722年、幕府への献上行為、家相互の贈答行為を小規模化、かつ領国内の産物に限るよう命じられる。
・1761年、産物が不出来で献上不能のときは、他の品物に替えて献上。
・1788年、従来からの献上品でも無用のものは品替えして献上。
・1789年、高島藩の寒瀑蕎麦、漬蕨に替わって時献上品となる。
・1789-1801年頃、規模を誇る献上行為や義務的献上行為が戒められる。
「いろいろと管理に苦労してる!」と思われるだろうが、細かい変更点を尤もらしい顔をして指導するのが役人の仕事である。
前年に、従来からの献上品でも無用のものは品替えして献上してよいとの行政指導があった。そこで高島藩は、これまでの漬蕨に替わって寒瀑蕎麦、時献上品としたのである。
このころの高島藩主は諏訪忠粛である。彼は1781年、18歳で高島藩7代目藩主に就いた。父忠厚は暗君であった。執政を二人の家老に任せ、怠けていた。その上、忠厚の正室には子がなく、側室の子二人のうちどちらをどうするかをめぐって「二ノ丸騒動」と呼ばれるお家騒動が起きた。
あわや忠粛は暗殺されかかったが、結局は正室(備中福山藩2代目阿部正福の娘)や遠縁筋の三河西尾藩3代藩主・松平乗寛(正室は福山藩4代目阿部正倫の娘)に推された忠粛派が勝利し、二ノ丸騒動も落着した(1783年)。
そうしたところ(1789年から)への、「新献上品の寒瀑蕎麦」である。江戸の街は蕎麦切が盛時であった。あの有名な「更科」の暖簾が掲げられたのもこの年である。「貴重な寒瀑蕎麦」は「夏に蕎麦切を食べたい」と欲していた幕府役人の喉をくすぐったものと思われる。
それが証拠に、三年後(1792年)、忠粛は江戸幕府・奏者番に就いている。そんなことでと思われるかもしれないが、献上・贈答品は世間の潤滑油であった。加えて、同じく奏者番であった義父の松平乗寛の推挙があったのかもしれない。
奏者番というは、大名旗本の年始、五節供、朔望などに将軍に拝謁するとき、姓名、進物を披露し、将軍よりの下賜品を伝達する役割であり、20~30名ほどが就いていた。いずれも言語怜悧、英邁の人物でなくては勤まらない役職といわれ、譜代大名はここを振り出しに寺社奉行、若年寄、大坂城代、京都所司代、老中へとエリートコースを進んでいったのであった。
諏訪氏においてもそれは違わず、孫の忠誠は若年寄、寺社奉行、老中へと出世していった。今風にいえば、「正統派キャリアパス」といったところである。
そういう意味では、諏訪氏にとって忠粛の藩主就任と寒瀑蕎麦の献上はラッキーカードだったといえる。
話を大名以外に転ずれば、献上したのは大名ばかりではなかった。献上が幕府とのつながりを強調し特権性を主張するものであれば、当然の行為である。
たとえば、将棋指しの名人内定者は「図式」(諸将棋集)を印刷して幕府へ献上するのは棋界の定めとなっていた。この献上図式は後に出版され流布し、詰将棋の発展に寄与した。
また、金座後藤は毎年正月や将軍が替わるごとに慣例として小判を献上していたが、その中の「献上大吉小判」と通称されるものは、縁起かつぎで人気が出た。ここから貨幣の贈答文化が生まれたが、これはヨーロッパにはない文化となった。
日本独自の文化といえば、われわれは贈答品に食べ物を選ぶことが多い。これは、その象徴である「のし」が、「熨斗鮑」、つまり海産物である鮑の肉を桂剝きにしたものを薄く延し、紅白の紙を折って挟んで水引で結び、めでたいときに贈答品に付けたところに由来するであろう。
また、こうした「熨斗鮑」が「のし」のデザインに変化するところが和の文化の骨頂であろう。
こうして見てみると、日本の近世は、贈答行為が有効な社会、かつ献上行為が公的であった社会体制であったことがうかがえる。
言葉を換えれば、献上とは「支配する者」と「される者」の間のひとつの儀礼行為として恒例化していたものだった。
その裏返しの面白い例が、1865年(慶応元年)の行政指導である。諸藩が朝廷と結ぶことを警戒し、幕府は大名に対して朝廷への献上は国産の献上品一品ずつと制限していたのである。
やがて、わが国も革命が生じて明治となり、新政府は1871年(明治4年)に献上システムを廃止した。
しかしながら、政治体制(幕府←藩主←村民・職人)が変わっても、献上品はご当地(村民・職人)の銘物として、今も広く愛されている。なぜなら、それは最初から決して幕府のものではなく、地元の人の叡智と汗血の賜だったからである。寒瀑蕎麦でいえば、それは生産者茅野市の伝統ブランドなのである。
〔「寒晒しそばシンポジウム」(茅野商工会議所、2013.7.15)より☆ほしひかる〕