第429話 大阪のお蕎麦
2017/07/12
☆大幸庵 玄にて
大阪のテレビ局ABCから「お蕎麦に山葵!何でやネン」という番組に出演して話してほしいと依頼があった。
「お蕎麦+山葵」、当然すぎて「なぜ?」と思ったことがあまりないから、新鮮に感じた。ただ、台本を読むと、「鰹節は生臭い」という台詞が何回も出てくる。「ふーん。これが大阪人の鰹節に対する感覚なんだろうか。面白いな」と思いながら、新幹線に乗った。
当日は、堂島にある「大幸庵 玄」という蕎麦店に朝8時半集合ということだった。
その店の社長は「そばよし」グループとして8店舗を経営している大阪の名店で、いい店だった。ただ、堂島界隈は高級クラブや料理屋がひしめいている。私も若いころ一、二回、来たことがあるが、その場所が何処だったかはまったく憶えていない。マ、こんなことはどうでもいいが、繁華街での蕎麦店経営もなかなか大変だろうと思った。
さて、番組は蕎麦の薬味は元々大根だったけれど、8代将軍吉宗の享保の改革を機に徳川幕府が政策として「蕎麦+山葵」をすすめたので、鰹節の生臭さの解決とも相俟って、一挙に広がったという内容であった。
そこで、局が撮影用に注文したのは《おろし蕎麦》だった。
見ると、《ざる蕎麦》の横にある薬味皿にはすり卸した辛味大根が塔のように高く盛られている。
「蕎麦の薬味は元々大根」という台詞の、元々の大根というのは歴史的には《しぼり汁》のことであるが、目前のはすり卸し大根盛りである。「あゝ、これが今の大阪風《おろし蕎麦》なのか」。ちょっと想像とは違っていた。
撮影では、味覚比べも行われた。
蕎麦は北海道砂川産である。
1) 猪口に入っていた汁の匂いを嗅ぐ。― と、確かに生臭い。
2) それに《おろした辛味大根》を溶かす。― と、確かに生臭さが消える。
3) さらに《山葵》が添えられる。― と、香りが立っている。
「味覚センサー」という機器による味覚テストでも、「薬味を入れたつゆ」と「薬味を入れないつゆ」は、前者がまろやかになっているという結果が出ているから、今日の食味テスト結果も正しいといえる。
ただし、そこには江戸・東京人は本枯節を使うという視点がなかったので、そのことを入れて話をすすめてみた。
いずれにしろ、美味しいつゆを求めて薬味の役割があるということは基本であろう。
そうした基本をおさえた上で、次のようなことも頭に入れてお蕎麦を楽しんだ方がいいと個人的には思っている。
イ) お蕎麦には辛味大根が合うものと、山葵が合うものがある。
ロ) 卸し金でおろした山葵はつゆに溶けやすいが、鮫皮で擦った山葵は粘りがあるから蕎麦切に付けた方がいい。
☆笑日志にて
撮影が終わってから、北浜にある「笑日志」というお蕎麦屋さんに行くことにした。
堂島と北浜は遠くはないが、局の車で送ってもらった。車中で「エッ!『笑日志(エビシ)』ってあるんですか。われわれはABC(エビシ)なんだから、そこでロケすればよかったなあ」と局の人に云われ、笑い合った。
「笑日志」では二代目ミス江戸ソバリエのYさんが働いているから、様子を見たかったのであるが、彼女は「今日は休暇」ということだったので、お客として案内してくれることになった。
そこで昼時を避けて喫茶店で待ち合わせ、頃合を見てお店に入った。
お店は平野橋の近くにあった。
須賀敦子が「橋」というエッセイで、ヴェネツィアの橋を渡っているうちに、『心中天の網島』に出てくる大阪の多くの橋を思い出したと述べているが、たしかに大阪は川と橋の多い街である。
その川も最近はきれいになっているから、リバーサイドにある美味しい店は人気があるらしい。当店もそうで、お昼時を過ぎても満席状態が続いていた。
店主は、前職が技術屋さんだっというだけあって「東京立石の『玄庵』で蕎麦打ちを習って開業した」と真面目にキチンと話される。確かに、お蕎麦も玄庵風で美味しかった。
メニューをつらつら眺めてみると、ここにも《おろし蕎麦》があった。やっぱり辛味大根だ。伺うと、大阪の市場では何処でも辛味大根を売っているという。
さらにメニューを見ていると、《いりこの天麩羅》や《蕎麦湯で炊いた鯖飯》なんていう面白いメニューもあった。
こういう面白さといい、辛味大根の違いといい、鰹節に対する感覚といい、所変われば、品変わる。品変われば、その土地の人たちの六官も違うということだろう。
お蔭さまで、たいへん勉強になる楽しい一日だった。
帰るとき新幹線の土産売り場に、「面白い恋人」というお菓子が目に入った。例の「白い恋人」と似た感じの包装紙だった。
買わなかったけれど、「大阪って、面白いな」と思った。
《参考》
*須賀敦子「橋」(新潮文庫『地図のない道』)
〔文:江戸ソバリエ協会 ほしひかる ☆ 写真:江戸ソバリエ 砂野信氏〕