第56話 つゆの焦点
☆不思議な女優・中谷美紀さん
映画『ゼロの焦点』を観た。中谷美紀、広末涼子、木村多江という魅惑の三女優の競演も見ものであるが、相変わらず中谷美紀さんの演技には迫力があった。
彼女は女優であるが、著書にも『ないものねだり』、『嫌われ松子の一年』、『インド旅行記1.2.3.4』、『自虐の詩日記』と幾つかある。しかも、そのタイトルは、演技同様にかなり個性的である。たとえ映画(『嫌われ松子の一生』『自虐の詩』)の題名からとったとはいえ、「嫌われ」とか、「自虐」とかいう言葉をもってくるところが女優さんとは思えない。
それに『ないものねだり』を開くと、「お見苦しいとは存じますが、私の足です」というキャプションが付いて、彼女の足の裏の写真がドーンと掲げられている。美人女優らしからぬと驚いてしまう。
彼女に注目した最初は、「お蕎麦屋さんのかえし」というエッセイだった。「かえし」については、蕎麦打ちの先生しか書かないようなことなのに、面白い女優さんだと思った。
【中谷美紀著『ないものねだり』など】
そんなころ、ドラマ『白洲次郎』が放映され、彼女は白洲正子役を演じていた。白洲正子の著書を数冊読み、白洲正子に憧れていた私は、この連続ドラマによって彼女がどのような過程を経て執筆するようになったかがよくわかった。とくに晩年の大きなサングラスをかけた正子(中谷)の顔は写真で見る白洲正子とそっくりで、中谷美紀さんの白洲正子は適役だった。
☆モーツアルトを聴いた「ナカタニがえし」
さて、話は「かえし」のことである。江戸蕎麦はつゆが大事だということは、蕎麦好きの人なら理解できることである。そのことは江戸時代にも指摘され、明治以降の文学では、村井弦斎が『食道楽』で、田山花袋が『時は過ぎゆく』で、志賀直哉が「豊年虫」の中で「東京の蕎麦はつゆが旨い」と述べている。
その蕎麦つゆは、《出汁+かえし》で作る。せっかくだから「焦点」という言葉を使って表現すれば、出汁とかえしが集まって焦点となったのが蕎麦つゆ、といったところだろうか。
かえしというのは、醤油、砂糖、味醂などの併せ調味料のことで、作り方によって(1)本がえしと(2)生がえしがあり、(1)本がえしは煮立てたもの、(2)生は甕の中で寝かせたものである。
中谷さんは、醤油1升、ザラメ350g、味醂200ccを甕の中で3か月寝かせて作られたようである。しかも、その間にモーツァルトまで聞かせたというから、その徹底ぶりに中谷さんはわれわれソバリエの仲間ではないかと勝手な錯覚をいだいてしまう。さぞかし深味のある「かえし」ができたであろう。
そういえば、中谷さんはちゃんと「蕎麦」という漢字を使われていた点も好ましい。たまに「私はソバが好きである」とカタカナで書く野暮な人がいるが、中華ソバでも食べたのだろうかと勘違いしてしまう。ひどいのは「ソバもタレも旨かった」なんて聞くと、鰻か、焼き鳥の垂れでもかけて食べたんだろうかと想像してしまい、野暮を通り越して気持悪くなる。
蕎麦は小粋に食べ、小粋に書いてほしいものである。
参考:「蕎麦談義No13. No40」 (フードボイス)、映画『ゼロの焦点』、大友啓史演出『白洲次郎』(NHK-TV)、村井弦斎『食道楽』(岩波文庫)、田山花袋『時は過ぎゆく』(新潮社)、志賀直哉「豊年虫」(『万暦赤絵』岩波文庫)、小島政二郎『食いしん坊Ⅰ』(朝日文庫)、中谷美紀「お蕎麦屋さんのかえし」(『ないものねだり』幻冬舎文庫)、
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員 ☆ ほしひかる〕