第210話 マンハッタン・スケッチⅣ

     

【マンハッタン ☆挿絵 ほし】

☆ニューヨーカーのブレックファースト 

 ニューヨークの初日はホテルで朝食をとった。 パン、バター、ジャム、ポテト、ベーコン、スクランブルエッグ、フルーツ、ミルク、ジュース、コーヒー・・・、それにバナナとリンゴ。こちらの人はバナナ、リンゴが大好きなようだ。どこにでも置いてある。

 食べ終わってから、伝票を見ると、約3,000円。旅行中というのは金銭感覚が麻痺しがちだが、「それにしても高い」ということで、翌日から「外で食べよう」ということになった。

 幸い、街には「スター・バックス」などファスト・フード店が一定間隔を置いて存在する。同店は日本ではコーヒー・ショップであるが、こちらではファスト・フード店。山のようにパンや野菜サラダが積まれてあり、好きなパンとコーヒーと野菜サラダを買う。

 いうまでもなく、ファスト・フード店というのは子供でも注文できるシステムである。「パンはこれ、サラダはあれ、ドリンクはコーヒー、コーヒーの量はレギュラー」と選択すれば、料金は「$○○」とレジに表示される明朗会計。だから、子供のように不案内の外国人旅行者には便利である。

 というわけで、2日目の朝も「PRET」という店、3日目の朝は別の店。多少パンの種類やサラダの種類は違うけれど、どれも似たような規格的な味だった。 

 それ故に、4日目になってファスト・フード店のブレックファーストに飽きてきた。だから、「またホテルにしよう」ということになった。そこでは、温かいパン、やわらかくシットリしたスクランブル・エッグが美味しくてややホッとした。

 少し硬くいえば、現代というのはイギリスの産業革命から始まった。だから現代文明というのは機械化ということでもある。機械化の洗礼は「食」においても免れることはできなかった。いわゆる食の工場生産である。とくに大国アメリカにとってそのシステムは最適であった。そこに多民族という要素が加わって、誰にでも分かる便利なファスト・フードというシステムが生まれた。 

 映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』では、「アイルランドのステップに暗黒大陸のリズムをごった煮したスープが、アメリカ料理」という台詞が出てくるが、これは料理のことよりアメリカが多民族によって成り立っていることを指している。現に、地下鉄でも、街中でも、とにかく多くの人種のアメリカ人が行き交う。その上、ニューヨークは世界一の大都市だ。独身者も溢れているのだろう。便利なファスト・フード店も最初はそうした独身族にとっての店だった。だが、それはいつの間にか、大都市ビジネスマンのブレックファースト店になっていた。

 歩いていて、面白いと思ったのは、「ブレックファースト」「ランチ」「ディナー」と明示している店が多いことである。日本語でいえば、「朝食屋」「昼食屋」「夕食屋」といったところであろうか。日本の場合は、このような形で「三食」を明示していないし、また「朝食屋」というのはめったに見かけない。実態的には昼の「ランチ屋」と夜の「居酒屋」がかなりの数を占めているだろう。われわれには、まだ「朝から、外で食事?」という気持が残っているが、ニューヨーカーはそうでもないらしい。もちろんこれは旅行者の勝手な観測ではあるが。

  ところで、余談だが、ここでチップの話をしよう。われわれ日本人には馴染みがないから、チップの計算が煩わしい。だから、山岸さんに計算の仕方を教わった。彼によると、税金8%の2倍がチップの相場だという。ということは、表示価格の24~25%アップが値段だと思った方がいい。

 チップは食事、タクシーなど人手が入るときに加わる。スーパー、コンビニやファスト・フード店など人手を省いているところはチップはいらない。チップ賛同者によれば「理屈が通っている」と言う。彼らの論の奥には、人手を省いている店は安いのが当然だろうということになる。

 そういわれればそうだが、馴染みのない者にとっては余計なものを取られているような気がしてならないのだが。

 

☆ニューヨーカーのディナー

【KEENS】

 今日はディナーに、ステーキハウス「keens」という店を訪れた。1885年から続く老舗であるらしい。店内はいかにもそれらしく格調高い雰囲気があった。そして何といっても圧巻は天井にギッシリと並んだパイプである。とても数えられないが、1万個ちかくはあったろう。それに、部屋は暗い。蝋燭だけの灯である。暗いのは、この店だけではない。アメリカのディナー・レストランのほとんどが暗い。というのは、アメリカ人は明るいのは苦手で、暗い方が平気らしい。眼が太陽に弱いのである。だからサングラスをかけている。そんな暗い部屋のお隣をチラリと見ると、大きいステーキが鎮座している。

 でも、「日本人は、3人で2人前ぐらいならちょうどいいでしょう」と山岸さんが提案したので、われわれはそうした。

 すぐに、ワインとサラダとステーキがきた。さっそく塩・胡椒を振って、肉を口にした。「美味しい!」さすがに、老舗だと思った。

 食べながら、山岸さんがジョークを言った。「暗い所で生肉を食っている姿(アメリカ人)は、まさに狼などの肉食動物そのものですよ」と。逆に私は、明るい部屋の中で生魚を食べているわれわれはいったい何だろうと思った。

 肉は美味しかった。しかしながら、そんなに食べられない。何故だろう? と思ったとき山岸さんが回答を出してくれた。「われわれは塩・胡椒ぐらいの原始的な味付けでは飽きてきて、そんなに食べられないのですよ」と。

 そうだと思った。六本木のSというステーキハウスでは、ニンニクと一緒に焼いて、目の前の鉄板の上で食べやすい賽の目くらいにカットしてくれ、さらにはソースが美味しい。

 蕎麦や天麩羅はつゆ、鰻や焼き鳥はタレ、そしてステーキもソースがあってこそ美味しく食べられる。このつゆ・タレ・ソースこそが原始的な調味料である塩・胡椒を越えた調味料文化である。だから、この店にはむしろ原始的な食を楽しむために来るべきであろう。

 とはいっても、気のおけない友人とのディナーは楽しい。違う席では数名の若いレディーたちが談笑しながら白い大きな皿にのった大きなレア肉を食べている。そのずっと奥には若い恋人どうし、その先にはご夫婦が・・・。これがまさに「ディナー」である。

 日本には外食の「ディナー」という慣習は少ない。あるのは「居酒屋」である。どこがちがうかといえば、ディナーは夕食、居酒屋は飲み屋である。夕食は恋人、家族、友人たちと食事をする。飲み屋は友人たちとのそれもあるが、だいたいは会社の延長である場合が多い。

 ところでと、今宵のメイン・ディシュは白い大皿のステーキであることはいうまでもない。そもそも洋食器は皿がほとんどで、日本のようなお碗はあまりない。あっても取手が付いたカップである。こうした食器の違いと衣服の関係に気付いた人たちがいる。万延元年の遣米使節団である。彼ら日本のサムライたちはポーハタン号や咸臨丸に乗船し、サンフランシスコやニューヨークやワシントンを訪れたが、ワシントンのウィラーズ・ホテルの食堂には、銀の食器、金めっきした磁器、ボヘミア・ガラスの器などに豪華な料理が盛られていた。

 その食事中、サムライたちは袂が食べ物の中に入って困り、「外国人と交際するときには洋服がいい」と実感したというのである。

 これを私流に解説すれば、1)日本のように碗(椀)であれば、袂が中に入ることは少ないが、アメリカの食器は皿ばかりだから、袂が入って汚れた。2)日本人のように碗(椀)を手にして食べるなら、袂が中に入ることはないが、アメリカ人は食器を手にしていけないというから、皿に袂が入って汚れた。ということになるだろう。

 私は、これを面白い記録だと思う。「食器、衣服、食事のマナーは、互いに関係し合っている」と気付いたのは、この遣米使節団員ぐらいであろう。

 なら、私もひとつぐらいは気付かなければならない。というわけで、世界を見渡してみると、袖のある着物を着ているのは日本人だけではないか。なぜ、このような不合理な長い袖が生まれたのだろうか? 

 その疑問を、ファッション業界出身の江戸ソバリエ・加藤正和さんにぶつけてみた。彼は「平面デザインと立体デザインの違いだ」と言う。要するに、日本の着物は畳めるように平面にデザインされているというのである。

 とすれば、日本の家屋、着物、食器、食作法がグルッとつながることになる。なるほど、当たり前のことのようだが、大発見だった。

 それからもう一つ、欧米人はなぜ白い磁器を使うのか? マイセンのように絵柄が付いているのもあることはあるが、基本は白である。

 これについては、帰国後に陶磁器研究家のM先生(江戸ソバリエ講師・戸栗美術館顧問)と、「ほそ川」でお蕎麦を食べる機会があったので、お尋ねしてみた。

 先生は「欧米人は金属製食器の代わりとして磁器を使うようになったから、絵や柄模様は少ない」とおっしゃる。「なるほど。だから、彼らはナイフ、フォーク、スプーンは金属製のままにしているのか」と納得する。ついでに、もうひとつ質問した。「私は磁器の方が軽くて、箸や唇の当たりが優しいと思うが、日本人はどうして重いゴツゴツした陶器を手放さないのか?」と。対して「茶道の侘びの影響だ」との回答。なるほど、先生はいつも明快だ。

  さて、話をニューヨークに戻すと、朝のブレックファーストと合わせて考えてみれば、ニューヨーカーは【ブレックファースト+ランチ】はビジネス・サイクルの中に組み込まれていているが、ディナーはそれから解放されたライフ・スタイルとして楽しんでいるようだ。

 一方の東京人はというと、朝食は家族的であるが、【昼のランチ+夕方の居酒屋】はビジネス・スタイルの中で過ごしている、のではないだろうか。

 もちろん、そのいずれが正しいというわけでもない。「朝食ぐらい家庭で」:「ディナーはプライベートで」は、「風呂は夜寝る前にゆっくり」:「シャワーは朝に」の対比に匹敵するぐらい、その国の長い歴史が醸す民族性によるものでもある。

 しかしながら、たまには自分のビジネ・スタイル、あるいはライフ・スタイルと食との関係を見つめなおすのもいいかもしれない。

 と思っていたところ、帰国後に「小松庵」の小松専務様と対談する機会があった。さっそく、ニューヨークのディナー・レストランと、東京の居酒屋の話をした。

 対して、専務様は「テレビなどで持映されている一部のオーナーシェフ・レストランは別として、今や街の居酒屋のほとんどが企業化・チェーン店化してきている。料理といえば素人でもできるようにマニュアル化され、プロの料理人は不要だと言う。そんなときだからこそ、われわれは蕎麦打ち、料理づくり、接客の腕を向上させ、そしてセンスを磨いて、蕎麦屋でご夫婦、恋人、友人どうしがゆっくりディナーを楽しんでいただけるような文化をつくり上げたい」と言われた。

 これは今まで述べてきた論からすれば革命的大変事である。そこで専務様は突っ込んでこられる。「だからこそ、文化度の高い江戸ソバリエの皆さんに、応援してもらいたい」と。

 〔エッセイスト、 江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる