第500話 後段の蕎麦
~ 寺方紀行-深大寺 ~
平成24年から、深大寺そば学院で「深大寺蕎麦学」の講座をもっている。
わが国の蕎麦文化は、鎌倉・室町時代に留学僧円爾が中国(宋)の食風を伝えたことから始まる。彼は、点心料理を導入しようとして碾臼(粉文化)・大根・茶・菓子など多くの物をわが国に持ち込んでいるが、食べ物史からみれば円爾の業績は大きく、日本人は鎌倉時代以降から麺食を始めたといえる。
麺類は当初、寺社における食事会の最後の「後段」として食べられていたようである。『料理物語』という江戸初期の料理書があるが、そこでも麺類は後段の部に紹介されていることからもそれが分かる。
その後段の初見は1506年の奈良興福寺、そして文献上最後に出てくるのは1694年江戸湯島の知足院で桂昌院が蕎麦切を持ち帰ったという記録である。この16世紀から江戸中期までの期間を小生は「麺類 後段の世紀」として位置付けている。
深大寺の蕎麦については、江戸初期に寛永寺の公弁法親王が「風味よし」と評されてから有名になり(『蕎麦全書』)、そして江戸末期に長谷川雪旦がとり上げて描いている(『江戸名所図会』)ところからすると、江戸時代を通して広く知られていたことがうかがえる。
とりわけ、雪旦が描くところの「深大寺蕎麦」(『江戸名所図会』)の様子は、まさに「後段の蕎麦」即ち「寺方蕎麦」に他ならない。
江戸では江戸中期に「後段の麺類」はピークが過ぎて、蕎麦屋の蕎麦が隆盛となっていたが、深大寺では①自作の蕎麦を刈り取って、②手づから打った蕎麦を、③後段に振舞うという、伝統の「後段の蕎麦」を守っていたとみるべきである。
そういう視点からいっても、「深大寺蕎麦は寺方蕎麦」の象徴であるといっても過言ではない。それゆえに『江戸名所図会』の「深大寺蕎麦」の絵は、深大寺地区のもならず調布市の宝であると思う。
《参考》
*「深大寺蕎麦」を演ずる
http://www.edosobalier-kyokai.jp/pdf/20161129hoshi7.pdf
*第494話 寺方紀行-永平寺
〔文・写真 ☆ 深大寺そば学院學監 ほしひかる〕