第523話 天麩羅小史
《鯛の南蛮漬》・・・揚げた連子鯛を、醤油・酢・砂糖の汁に唐辛子・玉葱と一緒に漬ける。わが家の正月料理の一つとして欠かせないものであるが、東日本には鮮魚の連子鯛が見当たらないので、年末に鯛だけ故郷佐賀の義姉に送ってもらっている。大正生まれの亡き母もこれを作っていたし、おそらく明治生まれの祖母もやっていたのだろう。佐賀の家庭ではよく見られる料理であるから、郷土の伝統料理料理の一つといえるのかもしれない。
「南蛮」というのは「外国」という意味である。具体的には16世紀半ばに九州へやって来たポルトガル人・スペイン人のことである。
九州人たちは、その南蛮人(とはいっても彼らは商人や宣教師、実際は中国人の手による料理であったろう)の料理に驚いた。肉を油で揚げて、唐辛子や葱と一緒に食べている。某統計によると佐賀人は鯛が全国一好きな県民らしい。それを観た長崎の人や出島を管理していた佐賀の鍋島藩の者あたりが、小鯛を食材にし、その上で日本の醤油と酢を加えて食べやすくしたのだろう。
史料的には16世紀末の『松屋会記』や『大草家料理書』に麩、蒟蒻、豆腐の揚物や鯛の南蛮焼が胡麻油や豚脂で料理していたことが記載されているし、また『料理簡便集』(田中信平著:1806年刊)にも「小鯛の南蛮漬」が紹介されている。
それが《南蛮漬=魚漬》や《阿茶羅漬=野菜漬》として受け継がれている。(今は、小鯵・鰯・公魚などの南蛮漬も見られるが・・・。)
ところで、有名な話として徳川家康の死因は鯛の天麩羅に当たったためとか言われている。もしこの伝えが事実だとしたら、当時は揚物と天麩羅の区別がなかったころだから、死因は《鯛の南蛮漬》だったということにもなる。
さて、揚物といえば一番の馴染みは油揚豆腐であるが、19世紀後半頃の江戸で、薄い油揚豆腐を袋状に割き、木耳・干瓢を刻み交えた飯を納め、《稲荷鮨》《篠田鮨》という名前で売り出された。江戸人の考案だから「お稲荷さん」は醤油で甘鹹く煮た物であるが、これは江戸人の、イヤ日本人の大発明であると思う。
それからもう一つ江戸人、日本人の大発明がある。それが現在の《天麩羅》である。1748年の『料理歌仙の組糸』に「魚をうどんの粉をまぶして油で揚げる。菊の葉・牛蒡・長芋・蓮根もあり、葛粉もまぶすこともある」と記されており、黄表紙『能時花桝 ヨクキキマス』(岸田杜芳著:1783年刊)にも天麩羅の屋台の絵が描かれているが、江戸人の誰かが粉をまぶすことを始めたらしい。
これ以降、衣をまぶして揚げた物だけを「天麩羅」と呼ぶようになった。やがて18世紀終頃になると、天麩羅屋台が大人気となる。ネタは江戸前の新鮮で生きのいい魚であった。
こうした歩みから生まれた「お稲荷さん」「天麩羅」のお蔭で、《きつね蕎麦》《天麩羅蕎麦》も誕生できたのである。
江戸ソバリエ協会では「日本の蕎麦は、中国生まれの江戸育ち」と謳っているが、天麩羅もまた「南蛮生まれの江戸育ち」といつてもいいのかもしれない。
〔文・写真 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる〕