第564話 謎解き《おろしそば》

      2019/03/11  

「福井そばを食す会」から

 「福井そばルネッサンス推進実行委員会」から、五感で味わう「福井そばを食す会」のご招待状を頂いた。福井に知人はたくさんいるけれど「ルネッサンス委員会」とのご縁はなかったはずと思いながら、主催協力の欄を見ると食環境ジャーナリスト金丸弘美様のお名前がある。たぶん彼が私の名前をリストにあげてくださったのだろう。
福井という所は在来種を大事にしている県として、蕎麦通の間では広く知られている。そのことが蕎麦好きにとつてはとても喜ばしいが、もう一つ有名なのが《おろしそば》である。
そもそもが《粗挽蕎麦》とか《いなか蕎麦》とかの野主趣性あふれる蕎麦には辛味大根はよく合うとたいていの人は言っている。
なら、福井の《おろしそば》はいったいいつごろから食されていたのだろうか?と大いに関心をもっていた私は、喜んで会に参加することにした。
この【大根+麺】という組合せは、元々南宋の食習慣であった。それをわが国に持込んだのは鎌倉時代の留学僧円爾弁円である。そればかりか円爾は、それまで穀物の粒食しかなかったわが国に「碾臼」を初めて持込み、日本人に粉食を始めさせた日本食べ物史上の重要人物である。それゆえに彼は麺・饅頭・静岡茶の祖ともよばれている。
お蔭で室町時代になるとわが国にソーメン・うどん・蕎麦の麺文化が花開いた。
では、福井の蕎麦の歴史はどうかといえば、会場の「九頭竜蕎麦」(神楽坂)で頂いた資料『「ふくいそば」の話』には次のように紹介されていた。
 ☆1471年、戦国大名朝倉孝景が兵糧食として蕎麦を栽培させた。
 ☆1601年、越前府中(越前市)の藩主本多富正が京より蕎麦師金子権左衛門を同行し、工夫して《おろしそば》を考案した。 

食べ物としての蕎麦の、わが国初出は1438年である。その頃、京の相国寺などでは蕎麦が食されていたようだから、福井の1471年は時代的にも符号する。
また当初、蕎麦をはじめとして麺類は京の寺社で食べられていたから、本多富正が京の蕎麦師を同行したことはありうる話である。
さて、大根であるが、今はだれでも知っている〝卸す〟という調理法は実は日本独自である。
ところが、先述の東福寺を開山した円爾の朝食は、柱状に切った大根と素麺であった。その大根は約8mm角、長さ約5cmぐらいに切り、まるで薪のように2本ずつ互いちがいに積みあげてあったという。
では、日本人はいつから大根を〝卸す〟ようになったのか?
その判断材料として、次のような史実がある。
1636年、尾張藩の徳川義直一行は日光東照宮への参詣の途中、中山道の贄川宿で蕎麦を食べている。この時の【汁は、大根の絞り汁+醤】、【薬味は、細かく切った鰹節と葱】だった。それを何杯もお代わりしたというから、小椀に入った蕎麦に汁や薬味を和えて食べたのである。
問題は、この大根の絞り汁である。汁にするためには〝卸し〟てなければならないだろう。だから1636年頃にはすでに〝卸す〟という方法を日本人は編み出していたものと考える。
さらに【大根の絞り汁+醤】と【細かく切った鰹節と葱】は、江戸蕎麦の【返し】に頼らない越前の《おろしそば》と似ている。
つまり江戸初期はこうした蕎麦が主流だったことが推察できる。
ところで、小生は《郷土蕎麦》には(1)歴史遺産型と(2)地産地消型があると常々申上げている。
それから見ても、《おろしそば》はまぎれもなく歴史遺産型である。それをがんこなまでに大事にされている福井県民に敬意を表したいと思う。

〔文 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる

写真:「ふくいそば」の話:金丸弘美著『タカラは足元にあり!』