第565話 人間だから♪

      2019/03/17  

新潟市での講演会から

 新発田の蕎麦屋「一寿」さんから依頼され、「名店に学ぶ 家庭で味わう江戸の蕎麦前」の話をするため、今度は新潟市へやって来た。
先週の長岡市もそうだったが、今日の新潟市も約50年ぶりである。
駅からタクシーで会場へ向かうが、辺りの景色は一変していて、まるで初回訪問の見知らぬ街のようである。
車の窓の外はポカポカの小春日和。しかし私の目には半世紀前の雪が舞っていた。そんな幻影を浮かべていると、運転手さんが「今年は雪が少なかったので、農家は困っていますよ」と言った。
旅のレポートなどで「空港からタクシーに乗った。その運転手さんが言うことにゃ〇〇だそうだ」式の文言は陳腐だが、この運転手さんは私の心を読んでいるかのようだ。私が理解する限り、強く降る雨より、優しく降る雪の解け水の方が雪国の稲にとってはいいということだろう。都会で気象情報を聞いていると、雨や雪は敵襲来の警報扱いだが、地方ではそれは生活の友である。「雨よ降れ、雪よ降れ。旱続きじゃ、稲が死ぬ」ということである。
私の半世紀前の映像再生はなおも続く。若いときに初めて訪れた新潟は、日本海の甘海老や魚が大変美味しかったし、新潟平野の米がびっくりするほど美味しかった。当時の私は若かったから、ご飯を軽く三、四杯はお代わりしていたと思う。今も、わが家の米が「新之助」なのはそのせいだろうか。
そんな想い出から今日の話は始めようかと思いながら、会場に入った。
そして、プログラムを見ると、今日の私は片岡鶴太郎さんの前座のようだ。だからというわけではないが、「一寿」さんと控室へ挨拶に伺った。タレントさんというのは気遣い抜群の方が多いが鶴太郎さんもそうだった。立ち上がってキチンと挨拶をされ、握手を求められた。その時、思った。今日の話でも、このように相手(お客さん)を尊重する気遣いを忘れてはいけない、と。
そういえば、新潟には蕎麦所の佐渡がある。お客様の中には佐渡の方もいらっしゃるかもしれない。だとしたら、佐渡の蕎麦にもふれようか。
聞くところによると、佐渡には《蕎麦どじょう汁》《せんぞうぼう》などがあるらしい。いずれも飛び魚の出汁だそうだが、このいわば【日本海食文化】の味覚は、ある程度分かる。
しかし、出発前にソバリエのYさんから佐渡には《椿蕎麦》があると聞いていた。その《椿蕎麦》ってどういうの? と興味をいだいて佐渡まで行きたいところだが、今夜は予定があるから、どうしても東京へ戻らなければならない。せっかく佐渡の目の前まで来ていながら、実に残念だが幻の《椿蕎麦》としてお預けだ。
そんな佐渡の蕎麦を少しだけお話したからだろうか、講演が終ってから、「佐渡が故郷だ」というお客さまがやって来られた。
私が「いつか、佐渡で天の川を見たいですよ」と申上げたところ、その方は嬉しそうに「ぜひ来てください」と言って、頭を下げられた。
「天の川」というのは、芭蕉の有名な句「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」のことである。ただ、AI専門のある大学の先生によれば、このような句はAIは作れないという。なぜなら荒海の曇天の日に天の川は見えない。だから論理(計算)思考のAIには不可能で、詩心をもつ人間だからこそ可能だというわけだ。そのとき私も加えて申上げた。AI化してマニュアルで動く今の人間も詩心がなくなっているから、「理屈に合わないものは作れません」と言うだろう。
そんなやり取りを思い出しながら、佐渡の方に「あの芭蕉の句は新潟の宝ですよ」と申上げたら、またまた嬉しそうに握手を求められた。

この日の次の登板は鶴太郎さんだった。私も舞台の袖でお話を聞いた。
彼はタレントであるが、画家でもある。その絵の話に及んだとき「絵は私の心模様を描いたもの」とおっしゃった。たぶん「この花はこうなっていないけれど、私はこう描きたいから、こう描くのだ」ということだろう。
私の文章もそうでありたいと思っている。そのときそのとき、書きたいことを書きたい。なぜかといえば、知識の披露や理論的展開文は書いていてもときめがない。漫画家の山本おさむ先生もおっしゃっていた。雑識の披露ならだれでもできる。それを物語にするところが、苦しくもあり、楽しくもある。
芭蕉でなくても、われわれ人間は、荒海のときでも見えない天の川を想像することができる。涸れた古池を見れば蛙飛び込む水の音が聞こえてくる。
そんなことを書きたいが、思うわりには実力不足の自分がなさけない。

〔文 ☆ エッセイスト ほしひかる

写真:「一寿」さんと