第596話 北京・貴州紀行2
2019/10/16
~ 蕎麦の民と稲の民の夢物語 ~
中国文明には、黄河文明と長江文明の二つがある。そのうちの「長江」というのは重慶から下流の名前であって、重慶から上流は「金沙(チンシャー)江」と言う。
であるから、前話の長江上流とは金沙江のことであり、その名は大西近江先生の「栽培ソバ中国西南部三江地区起原説」にも登場する名であるところから、ソバリエにとっては見逃せない地区でもある。
先生によれば、三江のうちの金沙江と瀾滄(ランツァン)江地区が栽培ソバの起原地であるという。
しかし、そこは水田稲作民族である倭族の住む一帯、あるいは近い所ではなかったか、と前話で述べたばかりである。
同地区の、水辺では水稲が、山間では蕎麦が栽培されていたのだろうか。
だとしたら、なぜ倭族たちは九州北部に上陸したとき、蕎麦の種を持参しなかったのだろうか。
それはやはり、地域は同じでも稲作の民と蕎麦の民は異民族であったからにちがいない。
大西先生は、蕎麦の栽培は5000年前頃と推定されている。
ではどんな民族が栽培を始めたのか? その頃の民の正体なぞ分かろうはずがないが、それでもあるていど想像はできる。
一部では、蕎麦栽培を始めたのは彝(イ)族の祖先ではないかという説がある。現在もダッタン蕎麦などを食しているからだというが、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
その彝族の源流は氐(テイ)族や羌族らが南下して金沙江や岷江流域に到達定着とする説もあるが、それはないと思う。なぜなら、彼らは前2世紀~紀元初頭まで現在の四川省の滇や邛都(涼山彝族自治州)を活動の場としていたというし、8世紀に越族のクニ南詔国を建てたのは彝族が主力だったことは歴史的にも明らかにされている。ゆえに彝族のルーツはどうみても稲作の民でしかない。また、そもそもが「彝族」という名前は幾つかの民族を一つの民族集団にまとめて第二次大戦後に与えられた民族名であるから過去の歴史が融合してしまっているところもあって、疑わしい。
またチベット族系を推す人もいる。しかしながらチベット族の発祥の地はヤルンツァンボ江中流のチベット自治区山南市ギャッツア県沢当であるというから少し離れている。遠祖は古いかもしれないが、彼らが力をもつのはせいぜい5世紀である。
それ以前、辺りには先住の民族がいたはずである。それが遊牧民の古羌(キョウ)族である。現在、岷(ミン)江一帯に住んでいる羌(チャン)族の遠祖だという。
古羌族は南下して岷江、大渡(タートー)河、雅礱(ヤーロン)江に定着したと言い伝えられており、かなりの確率で信憑性があるらしい。彼らは大国の漢族とチベット族の間にあって一貫して中国王朝側に付き、チベット王国と戦ってきて生き延びてきた民族である。生業はトウモロコシ、ジャガイモ、チンクー麦、蕎麦を栽培し、豚や山羊を飼育している。また伝来の石塔文化を有していることも知られている。
他にも、普米(プミ)族というのも古羌族の末裔といわれているが、彼らが金沙江や瀾滄江にやって来たのは7世紀と遅い。しかしながら古羌族の末裔が複数存在すること自体が遊牧民族の南下ルートが存在していたことの証となっている。よって、栽培蕎麦を始めたのは古羌族あたりだとするのがかなり有望であると思う。
だとしたら、凄い話である。中国西南部三江地域には蕎麦と稲の原点があったと見らざるをえない。
水稲の民は長江を南下して、日本列島の北部九州へ辿り着いた。その民‘Y染色体ハプログループO’は後世、‘弥生人’とよばれるようになった。イヤ、正確にいえば、北部九州の先住の‘縄文人の女性’と、今やって来た‘Y染色体ハプログループOの男性’の子孫が弥生人となったのである。
当然、それまでの日本列島には縄文人が先住していた。彼らは遠い昔に、モンゴルやシベリアなどから朝鮮半島や対馬を経由して列島に渡って来ていた。Y染色体ハプログループで表現すれば、‘Y染色体ハプログループD’や‘C’であるらしい。
一方、金沙江と瀾滄(ランツァン)江地区で栽培されていた蕎麦は遊牧民たちの知るところとなって中国の北方へ運ばれた。そこには日本列島を目指して移動中の‘Y染色体ハプログループD’や‘Cがいた。彼らは出会った蕎麦を携帯して、日本列島に渡って来たと思われる。それは今から3500年ほど遡った頃であった。
かくて、中国西南部三江地域を発った蕎麦と水稲は、一方は北回りで、他方は南回りで流移して、日本列島で奇跡的遭遇を果たしたわけである。以上が太古日本の蕎麦と水稲の、夢物語である。
〔文・挿絵 ☆ 江戸ソバリエ認定委員 ほしひかる〕