第231話 トコロジスト
これまでに①東京都②千葉県③茨城県④埼玉県や⑤山梨県⑥岐阜県などで「蕎麦談義を」と依頼されたことがあるので、そのときは蕎麦についての一般論をお話させていただいた。
しかし、「江戸ソバリエ」という地域主義を掲げている身としては、も少し突っ込んだ姿勢をもって臨みたいナと思っていた。
そんなとき、長くお付き合いしているお蕎麦屋の「門前」さんや深大寺さんから「深大寺そばの学校」で話してほしいと頼まれた。
さっそくながら、私は講義の軸を何にしようかと考えた。深大寺だから深大寺蕎麦。それは当然であるが、その基本理念は何か? というわけである。
そんなころ、4~5名の友人たちとの会食会で、日本野鳥の会関係の仕事をしているという人が、現在「トコロジスト」という考え方をもった人の冊子を作っているということを聞いた。内容はそんなに難しくない。「自分の拠って立つ所を大事にしようよ」という意味だ。
集まった友人たちは、各々地域活動を行っている人ばかり。そんなわれわれは単なる歴史散歩では物足りなく思っている。観光旅行やブラリ旅もあまりしない。なぜなら、そこには〝愛情〟がないからだ。
それゆえに皆さんは、この愛情たっぷりの「トコロジスト」という言葉にピンと反応した。なぜなら、そのときから会は「トコロ会」と名付けられたのだった。
1. 深大寺蕎麦談義
トコロジストの眼鏡で深大寺蕎麦を見てみると、明確になってくることがある。
それは、やはり深大寺蕎麦の拠り所(=歴史遺産)は、『蕎麦全書』と『江戸名所図会』だった。前者は寛永寺と蕎麦、後者は深大寺と蕎麦。この二つに共通するのはまさに「寺方蕎麦」である。
江戸時代は蕎麦屋の蕎麦の盛事の時代、その一方では脈々と生きている正統派の寺方蕎麦、これを考えるのは深大寺において他はないと思った。
そしてそのことに気付いたからこそ、『江戸名所図会』再現を思いついたのであった。
2. 日本橋蕎麦談義
ご縁があって、企画会社のSさんや日本橋の「にんべん」さん、『月刊 日本橋』の編集の方とお付き合いを願っている。
蕎麦好きから見ると、日本橋というのは大変魅力のある街である。簡単にいえば、江戸蕎麦というのは日本橋から始まったといっても過言ではない。江戸蕎麦切の最初、蕎麦屋の最初、《しっぽく蕎麦》《鴨なん》など新商品の開発。どれをとっても日本橋が最初である。それは全て、日本橋という所の立ち位置が「江戸の台所」だったということにあると思う。
蕎麦好きの薀蓄は、このことを念頭におかなければ出汁の効かないつゆのよな間の抜けた話になるだろう、と思う。
3. 茅野蕎麦談義
いつもお世話になっているUさんを介して茅野市から「寒晒蕎麦」について話さないかとお声がかかった。寒晒蕎麦は江戸時代からの諏訪・茅野市の名産品である。だからそれを語るのはそう難しいことではない。だが、地元の方を差し置いて他国者がそれを語るのは少しおかしくはないかと思い至った。
そこでよく考えてみると「寒晒蕎麦」は将軍家への献上品である。私はそのことに注目した。そして聞けば聞くほど、献上品には当時の人々の汗と血の結晶 ― それが地方の名産品の本質であることを知った。
また地方の蕎麦も然りであって、汗と血があるかないかが、江戸蕎麦とちがうところであると思う。
4. 文京蕎麦談義
たまに文京区でお話させていたたいたり、地域誌(『空』など)に書かせていただくこともあるが、文京区に住んでいる小生は、当然文京区が大好きだ。まさにトコロジストの立場を発揮すべきときである。
といわけで、ちょいと調べてみると、あるワあるワ。
「お蕎麦の稲荷」、「一休名残蕎麦」、「慶喜公としっぽく蕎麦」、そして夏目漱石・森鴎外の二大文豪は蕎麦を題材にした小説まで書いている。
そんなことを考えると、やはり蕎麦においても文京は文化の街だった。
「文化」といえば、エジプト、ギリシャ、ローマ、中国文明はあるけど、「日本文明」はない。代わりに「日本文化」がある。
文明と文化 ― 似たようなことであるが、前者は物質・機械的、後者は学芸・精神的な味がする。
ということは、日本橋に始まった江戸蕎麦は、文京区などで学芸的に洗練され、蕎麦文化へと昇華した、といえるだろう。大事にしたいものである。トコロジストということを・・・。
〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕