第608話 大嘗宮にて想う

     

~ ある小説の完成 ~

 蕎麦などの日本食にかかわっていると、結局は『記』『紀』の世界に辿り着く。そこが日本の原点であり、また古代の衣・食・住の宝庫だからである。
その一つが新嘗祭。その年の新穀を神に供えて初めて食べる感謝祭であるが、とくに新天皇最初の新嘗祭は「大嘗祭」といわれ、新時代の始まりとしてかつて
は政治的に重要な意義があった。
その伝統は「天皇一代一度の重儀」として今も引き継がれ、令和においても11月14日夕方からの大嘗祭の中心的儀式「大嘗宮の儀」が、皇居・東御苑に設営さ
れた大嘗宮で行われたことは周知の通りである。
~ 陽が沈むころ、白い祭服を着た陛下は、儀式が行われる祭場殿舎の「悠紀殿」に入る。「悠紀殿供饌の儀」といわれる儀式で、奥に入った陛下は灯明の中、皇祖とされる天照大神の「神座」と向き合う形で座る。
 膳屋で調理した神饌が窪手(柏葉で作った四角の器)に盛られて悠紀殿に運ばれる。神饌は、主食は粟飯と米飯、副食は山の幸・海の幸の、生物四種と干物四種である。陛下は竹製の挟み形御箸で枚手(柏葉で作った皿形の器)に盛り付けて、さらに果物四種、白酒・黒酒をご自分で次々と神座にささげる。
 次に、神々に国家・国民の安泰と五穀豊穣に感謝し、祈る御告文を読み上げ、続いて直来として新天皇も同じものを召し上がる。
皇后さまも同じ白い十二単姿で、悠紀殿のすぐ近くの殿舎で拝礼する。秋篠宮ご夫妻ら皇族方も古の装束で参列。
天皇陛下は約3時間の儀式を終えて、休憩をとる。
そして、15日午前0時半から、もう一つの祭場殿舎「主基殿」に入り、同じ所作で「主基殿供饌の儀」を行う。
大嘗宮の儀の招待者は首相ら三権の長や自治体の代表ら670人。大嘗宮の中の建物に着席するが、外は暗いので陛下の様子はほとんど見えない。

この直会が日本の宴の元祖である。
また、悠紀田・主基田というのは、前もって皇居の宮中三殿で行われる、新米の斎田(収穫地)の地方を決める儀式「斎田点定の儀」で決められる。それは亀の甲羅を焼いて占う「亀卜」という秘儀である。研究では古の対馬や伊豆半島でこの習俗が見られるといわれているが、この度は小笠原から調達した青海亀の甲羅を将棋の駒の形に切り取り、薄く削った亀甲を火で炙ってひび割れを見て、占われた。
その結果、令和の大嘗祭では、悠紀地方(東日本)の斎田は栃木県、主基地方(西日本)は京都府に決まった。さらにそれに先立ち、宮内庁が斎田について悠紀田は栃木県高根沢町、主基田は京都府南丹市の大田主(耕作者)の水田と決定している。9月27日、大嘗祭に使う新米の「斎田抜穂の儀」(稲刈り)が栃木と京都の斎田で行われた。抜穂の儀では、白装束の大田主や地元農家の「奉耕者」が斎田に入り、鎌で稲を刈った。聞くところによると、斎田が決まった日から稲刈りまで
田には警護が付くという。
それから、新米「とちぎの星」と「キヌヒカリ」の精米180キログラムと玄米7.5キログラムは皇居へ運ばれる。これが神々に供える新米や酒となり、祝宴の料理にも使われる。
たまたま昨日、蕎麦屋の「栃の木や」で頂いた《望》というお酒は、この「とちぎの星」で造られた酒であるらしい。ともあれ、日本独自の農耕文化に根差した儀式といわれる大嘗祭は天武天皇(在位673~686年)の時から行われて続けてきた。しかし、天皇が殿内に籠って行う“秘儀”とされ、全く公開されない。
このため、多くの学者が史料を駆使して研究しているが、真実は陛下と数名の宮内庁の人とか知らないということになる。
私も、蕎麦の栽培を奨励したため「蕎麦の女王」ともいわれる元正天皇(氷高皇女)のことを平成17年に小説にしたことがある。その中で大嘗祭の様子を描いたがいかに三流小説とはいえ、書くからにはできるだけリアルに描写しなければならない。そのときは、やはりかなりの資料を読み漁って「大嘗宮」や「神饌」を学び、さらに乏しい想像力を絞りながらその様子を頭に描いたものである。
ところが、この度の令和の「大嘗宮」は取り壊される前に見学していいということになった。
報道によると、先日の土曜日は7~ 8万人の見学者があったらしい。
それを聞いて、月曜日は雨と予報されているから、いけるかもしれないとばかりに朝8時に坂下門に行った。すでに100人弱の人が並んでいるが、先日の数とは比較にならないほどの少なさである。開門は9時、その間土砂降りであったが、9時になって皇居に入ると雨は止んだ。
傘をたたんで、私は大嘗宮の前に立った。もちろん中には入れないが、さんざん資料を見ているから、だいたい分かる。それよりも、全体の広さや建物の質感や雰囲気などが肌で感じることの方が大事である。この点だけは資料では分からない。その上で、あらためてテレビに映っておられた天皇皇后両陛下のお姿も思い出したりしてみた。するととくに仄かな灯の中の雅子さまの映像が氷高皇女に重なって見えてきた。元正天皇も、あのようにして大嘗祭を行ったのだろうか、と。

これまで、三流ながら蕎麦の歴史小説を何篇も書いてきた。古代の役ノ小角や元正天皇から幕末の徳川慶喜や勝海舟まで・・・。その度に何十冊の資料に目を通してきたが、書くときはその全てを書くわけではない。むしろ書かない方がいい。そうすればするほど自分の手で描いた人物が今もなお愛おしくなる。
しかしながら、元正天皇の小説だけは14年目にして、今日完結したような気分であった。

〔文・写真 ☆ エッセイスト ほしひかる
大嘗祭の写真はネット