第625話 ペ ス ト
2020/05/27
COVID-19禍が世界規模で凄じい。
疫病ということで思い出すのがカミュの『ペスト』である。今から50年以上前に読んだ。怖い小説だと思ったことは憶えているが、その内容は忘れてしまった。そこでもう一度読み直してみようと本棚を探したが見当たらない。
20歳そこそこの青年の身としては未知の世界を示され感動したものの、その後社会人となって、非現実的なこんな本は不要とばかりに処分していたのであろう。
しかし、世の中は何があるか分からない。疫病の蔓延が現実となってしまった今、あらためて購入して頁をめくってみた。
小説はペストによってほぼ1年間、封鎖された街の人間模様であった。
私はこのペストをどうやって収束させたのだろうかと思いながら読み進んだが、いつのまにか収束したとなっている。これはドキュメンタリーではなく、あくまで人間が不条理といかに戦うか、あるいは人間への信頼ということを表現した小説であったから、政策的なところは描かれていなかったせいもある。だからわれわれは、カミュが何と言ってるかの声を聞き取らなければならない。
そう思って読むと・・・・・・、カミュは、疫病に対して専門家、つまり医師を主人公に設定していた。それに理性を失わない仲間がいた。これがカミュの回答なのだろう。
小説では都市封鎖した状態をカミュは「流刑」と表現していた。人道問題という声もあがったが、読んでいるうち私には「(疫病は) 移らない、人に移さない」という声が聞こえてきた。
むろん台風・大雨・地震・大火事などの災害の被害は甚大で悲惨であるが地域限定。だからその地から逃げること、あるいは救出することが基本だ。
だが全人類の敵である疫病は、「移らない、移さない」が基本である。よって、国や自治体は「そこから動かないでください」とお願いする立場になる。とうぜんお願いするからには全国民に対して義務が伴う。そこが全く異なる。
なぜカミュは医師を主人公にしたかというと、カミュはサルトルと並ぶ実存主義者であるが、彼はサルトルに比べて肯定的。だからカミュは人間を信じていた。カミュは医師という専門性はもちろんだが、医師という職業がもつ生命に対する使命感・倫理観に期待したのではないだろうか。
その医師の倫理感について、私はこういう体験がある。
若いころ、ソウルで開催された医学会へ某教授らと同行したことがある。そのとき「ソウルには射撃場があるので遊びに行きませんか」と何人かが提案した。私と同行した医師は「医師として、命を狙う武器に触れるわけにはいかない」と断った。皆も頷きながら同意した。私は、職には倫理があることを教えられた気がした。
そういう私の経験からいえば、「移らない、移さない」という防疫に対しては、生命の専門家が先頭に立つべきであると思う。かの人たちは人類の命を守るという使命感をもっている。だから、彼らに権限を与え、国や自治体がそれを支えなければならない。というのがカミュの伝言だと思う。
読書から数日後、ソバリエの仲間数名に誘われて食の衛生管理の話を聞きに行った。私やIさんは衛生責任者の資格をもっていたので、話の内容はだいたい察していたが、やはりこうして時々聞くことは必要であると思った。
ちょうど、そのころは武漢やクルーズ船のことで国民の不安が頭を持ち上げているころだった。対する行政の対応のまずさ、報道の拙さ、人々の不安からくるデマと混乱ぶりは小説『ペスト』に似ていた。
2月末になって、国の方針は「移らない、移さない」の施策がとられた。だが政治判断という理由のない決断が優先していた。先の原発事故でも政治家が前面に出てきて失敗したはずである。それをまた繰り返している。なぜ政治判断がいけないかというと、政治とは選挙、選挙とは人気、人気とは非理性的だからである。だから専門家体制が後まわしになってくる。そのため、カミュがせっかく予告提案してくれてにもかからず、「想定外」「初めてのこと」という言い訳が頻繁に使われ、お互が納得してしまうことになる。
しかし現実はこんなものであろう。人類は学ぶ偉大さもあるが、学ばない愚かさもある。その隙間を潜り抜け、敵であるウイルスは、次第に韓国・イラン・イタリア・フランス・スペイン・アメリカと世界規模で拡散していった。その中でも台湾やドイツは上手く対処しているという。
日本も、やっと3月22日のNHKの特別番組で、専門家チームの苦闘が紹介され、第一波は〝カミカゼ〟のせいかどうかは分らないけれど、何とか持ちこたえているようだ。しかし見てるかぎり日本では専門家チームに権限は与えられていない。相変わらず、政府や自治体の長が出てきて説明し、それに対してTVでは専門家にコメントを求めているというパターンだ。つまり専門家の知識をもとにした作戦を練らないで、インフルエンザ流行時を参考にする程度の判断で発表しているわけだ。だから国民は道筋が見えてこず不安に駆られる。
防疫には、医・薬・食分野の感染症・免疫・衛生・心理の知識のある専門家たちを結集して、国民への説明もふくめた重要な権限を有するチームの対処ノウハウを得るべきだと思う。
なにせ日本は、憲法で「健康」をうたっている数少ない国の一つである。だったらその憲法を遵守すベく防疫体制を築かなければならない。
(未完)
〔文 ☆ エッセイスト ほしひかる〕