第634話 日本平家物語

      2020/05/11  

☆新型コロナ特措法
この度のコロナ禍で対応が早かった国はドイツ、台湾、ニュージーランドなど遅かった国はアメリカ、イギリス、日本などと言われている。
早かった国には共通点がある。①感染発見前から手を打っている。②女性のリーダーだからなのか、人命尊重の理念がみられる。とくにメルケル首相は、人命・経済・保健政策のバランスがよいと評判である。これが「未来Ⅰ」で述べたマルクス・ガブリエルの言う「倫理資本主義」ということかなと思うところがある。最近、医療人類学者の磯野真穂も同じことを言っている。「命か、経済かではない。経済も破綻すれば命の危機。だから命と命だ」と。
遅かった国の米・英、そしてWHOに共通していることは、危機意識に欠けていたこと、分かりやいくいえばコロナをナメていたことである。
日本の場合、海に囲まれているため、死亡者数などが少ないことは幸いだが、1、2ケ月で収束できただろうに、まだダラダラと続いているのは、アベノムサクによるものだと言える。
それは日本政府が、いつもアメリカに、そして今回はWHOにも従っていたことと、とくに政府が法改正にこだわったことにある。
わが国には、新型インフルエンザ対策特別措置法(新型インフル特措法)というものが平成24年に成立していた。新型インフルエンザ等の感染症に対する対策強化を図ることにより、国民の生命や健康を保護し、生活や経済への影響を最小にすることを目的として制定されたものである。
この度の新型コロナに対しても、この特措法が適用できるという意見が多数出ていた。専門家である尾身感染症専門家会議副座長も「新しい感染症」だと説明した。にもかかわらず、政府の加藤厚生労働大臣(岡山県)は「今回は新型コロナウイルスだと分かっており『新感染症』ではない」と発言し、安倍首相(山口県)も新型インフル特措法の適用は難しいとして、令和2年3月13日改正新型コロナウイルス特措法(新型コロナ特措法)を成立させた。
この法改正手続きには1ケ月を要した。そのため「緊急事態宣言」などの次の対策がすべてが1ケ月ズレて、遅きに失したというわけである。
これまでは「法治国家」と言いながら、既存の法律を都合のよいように解釈し直してきた政府が、今回は新たな法律を作った。つまり本来の政治の目的は国民の生命を守ることにあるはずであるが、その国民に対する策は遅らせても、この機会に別の政治目的の方が優先したのである。それが何なのかは、まだわれわれ国民にはわからない。

しかし、その後の動きで少し謎が解けた。
噂の、レムデシビル点滴(アメリカ・ギルアド社)が約一週間で認可されたことである。これだけは異常に速かったと、多くの人が驚きの目で見ている。
新型コロナを終息させるには特効薬が必要である。ただし、レムデシビル点滴はそうした特効薬ではない。また副作用が心配される。とはいうものの、あるていど効果が期待できるというから、生命にとっては確かに福音である。
日本政府はこれだけは素早く動いた。これに対してアメリカ側はすぐに声明を出した。「日本はよきパートナーである」と。「アメリカの薬剤を買ってくれてありがとう」と言っているみたいだった。もちろん首相はすぐにアメリカ大統領に報告の電話をした。
しかし、なぜアメリカの薬だけそんなに速く認可されるのか?
他にもあるじゃないですか。アビガン錠(富山化学・富士フイルム)はどうなっていますか? ストロメクトール錠(北里大学大村智開発・MSD製造・マルホ製薬販売)はどうなっていますか? アクテムラ注(中外製薬)は? オルベスコ吸入(帝人ファーマ)は? フオイパン(小野薬品)は? フサン(日医工)は? VHH抗体(北里大・花王)は? なぜ応援しないのですか? との疑問がわいて、やはりそうだったのかと思ってしまう。
戦後日本は、アメリカの強い影響下で独立した。時の首相吉田茂は大事なことはアメリカの判断に従うという戦後政治を成功させた。以降の吉田学校の政治家たちも同じ路線を走ってきた。すなわち国民のためではなく、アメリカのためにやることが、日本の政治家の任務だったのだ。
ジョン・デューイが「行き詰まりは、目的より手段を優先させるところからくる」と言ったと「未来Ⅰ」でご紹介したが、目的と手段が入れ替わっていれば、国民はどうなる!

なら、そんな政治を監視するのが国民ではないか、それが民主主義ではないかと言うだろう。しかし実際に選ぶのは国民全員ではない。地元の選挙民である(全国区は除く)。その地元民は「おらが村の〇〇先生を大臣に、首相に」という郷土愛にあふれている。甲子園や相撲ファンと同じような心理で地元の人たちにがっちり政治家は守られているから、小選挙区の少数選挙民さえ押さえておけば、何をやってもオッケーということになる。じゃ、何人ぐらい押さえておけばいいかというと、単純計算で1選挙区に有権者数は平均約35万人、投票に行く人はその3割の約10万人、仮に3人立候補していれば、4、5万票獲得すれば安泰というカラクリである。もちろん一票の格差があるとおり、全国平均から割り出したモデル数値であるが、何年か当選を続ければ大臣の椅子が回ってくる。これじゃ、リーターシップも、いい政治もない。
先日も、西村経済再生担当大臣(兵庫県)は「新しい生活様式」を発表した。内容を見ると臨時の生活方法ではないのか。「新しい」とは何事か、何という愚策かと呆れてしまう。国は政策を怠り、また国民の生活に口を出してきた。小泉政治から、「自己責任」という名分で、国民に責任を押し付けるやり方をとってきたが、ここでまた同じカードを切ってきた。
また安倍首相は「責任は私にある」と疑惑や事件の度に繰り返して言うが、「私が責任を取る」とは絶対言わない。
よく、「リーダーとリーダーシップはちがう」と言う。「責任は私にある」と言うのは「俺がリーダーだ」と存在感を誇示している姿。「責任は私が取る」と考えるのがリーダーシップであるが、わが国の政治家は4、5万人の郷土愛有権者に守られ、アメリカともめごとさえ起こさなければ安泰という仕組になっている。だから責任ある政治はとらなくて済む「ムサク」システムになっている。
それゆえに、私は日ごろから新聞やテレビなどのニュース時には「安倍首相(山口県)、加藤大臣(岡山県)」西村大臣(兵庫県)という具合に記事中に選挙区を入れた方がいいと主張している。そうして、選んだ方も責任を感じるべきだと思う。
今がチャンスである。有権者も今日からおらが村ばかり考えないで、世界のリーダーのリーダーシップを見た方がいい。

☆平家物語
わが国には貴族政治から武家政治へと歴史的大転換をなした頃の話として『平家物語』がある。琵琶法師が語ったことだから、作者不詳ということになっているが、こんなにも見事な物語なら誰かが原作を書いたことは間違いない。その候補者として『愚管抄』の著者慈円だとか、その弟子であり、木曽義仲の参謀だった西仏房ではないかという名前が挙がっている。なぜなら『愚管抄』も『平家物語』も日本人の思想の一つである〝道理〟ということが一貫して描かれているからだという。
というわけで、この語りに登場するのは実在した人物であるが、内容は史実とはかぎらない。後世の『赤穂浪士の討入』と同じだ。
琵琶法師はこう歌い始める。

ぎおんしょうじゃのかねのこえ しょぎょうむじょうのひびきあり
しゃらそうじゅのはなのいろ じょうしゃひっすいのことわりをあらわす
おごれるひともひさしからず ただはるのよのゆめのごとし
たけきものもついにはほろびぬ ひとえにかぜのまえのちりにおなじ

琵琶の音ともに、シの音を連発することによって聞く者を心地よくし、平家一族の名を借りながら「盛者必衰の理」を説いている。
この社会では、権力者、つまり昇殿を許された平家一族を例に出して、最初は昇殿が嬉しくていい気分にだったが → やがて慣れると驕りが出て → ついには悪行を繰り返すようになると言っている。この「悪行」というのは批判側の視点であるが、そうでなくともわれわれは、最初は「ありがたい」と思いつつ → それが慣れると「当然」と思うようになり → さらには「もっと」と欲を出す心理は誰もがもっている
かくて、「じょうしゃひっすいのことわり」のとうり、平安末期、鎌倉・室町末期、江戸末期、戦後、バブル崩壊・・・と、日本の幕府や政府は何度も崩壊し、その度、国民によって再起を繰り返してきた。そして『平家物語』は平安貴族たちの没落の後に、鎌倉武士という新しい勢力の台頭があることも予告している。
だから、今回もまた日本は新しい人たちの台頭によって立ち上がるだろう。
その新しき者の台頭といったとき、二人の少女の姿が浮かんでくる。
教育運動家マララ・ユスフザイ(パキスタン)と環境運動家グレタ・トゥーンベリ(スウェーデン)のような新しい波だ・・・。

〔文・挿絵 ☆ エッセイストほしひかる