第60話 日本の麺文化
「江戸ソバリエ」誕生(八)
☆アジアで麺が生まれた
アジアの代表的な食文化の一つである麺は、どこで誕生したか?
この謎に対しては諸説あるが、アジアで生まれたことだけは確かである。
その証拠の一つとして、現在の新疆ウイグル自治区の火炎山遺跡などから、麺の化石が発掘されている。新疆ウイグル自治区の場合は、この地で生活していた原始ヨーロッパ人がメソポタミヤ(イラン・イラク)由来の小麦と粟の粉を手もみで麺状にして食していたものと思われる。
☆宋国で麺文化が育った
中国で生まれた麺は、大きく育ち、麺王国となった。その理由として中国の国土がグルテンの粘着性をさらに増すアルカリ性の水を有していたためと指摘されている。
時代はくだって、宋の時代。江南の都・開封は人口130万人、街には食堂が並び、麺は大衆の食べ物になっていた。そんなころ(宋代末期~元代初期)、『居家必用事類全集』という「家庭百科全書」のようなものが出版されていた。その湿麺食品の部には、水滑麺(スイカメン)、索麺(ソウメン)、絰帯麺(テッタイメン)、紅絲麺(コウシメン)、翠縷麺(スイルイメン)などが掲げられ、製法まで紹介されていた。製法には、(1)引き伸ばし法(水滑麺、索麺)と、(2)切断法(絰帯麺、紅絲麺、翠縷麺)があったと記されている。中国の麺文化は層が厚く、現在では1200種以上の麺料理があるといわれている。
☆栄西と道元が日本麺文化の親
中国の麺文化が飛躍した宋に、栄西と道元というわが国の先駆者的禅宗僧侶が入ったことによって日本の麺文化も幕が切って落とされた。
そもそもが、粉食を成立させるためには三つの条件がある。①食材(特に小麦)、②それを粉にする挽臼、③そしてその食法である。
栄西と道元は禅宗教義はむろんのこと、この①食材、②挽臼、③食法を体験し、そうした禅林での食生活、食事作法、喫茶法をわが国に持ち込んだのである。
帰国後、二人が調理、調味について述べているのは、宋における禅林での食生活がいかに大きかったかを表している。
*1187年、栄西は浙江省天台山万年寺と天童山景徳寺で禅を学び、抹茶法を習得し、帰国後将軍源実朝に『喫茶養生記』と茶臼で挽いた抹茶を点てて献上した。その『喫茶養生記』の中で栄西はこう述べている。「健康維持のために甘・辛・酸・鹹・苦の五味を摂取せよ」。 |
*1223年、道元は浙江省天童山景徳寺で禅を学び、帰国後『典座教訓』『赴粥飯法』を記したが、その中で麺類についての記述を行っている。これはわが国における麺の初出である。そして「甘・辛・酸・鹹・苦・淡の六味を調味せよ」と述べている。 |
☆挽臼の伝来と普及
ところで、石臼には搗臼と挽臼がある。粉にするには挽臼が最適であるが、わが国の挽臼は鎌倉時代になって初めて使われ始めたようである。
続いて入宋した円爾は挽臼に関心をもち、水磨の詳細なスケッチ「水磨の図」を持ち帰った。帰国したのは1241年であるが、その20年後の古文書(1261年「力王丸田畠家財譲状」)には挽臼の記録があり、以後1332年、1425年、1450年の古文書に挽臼の記載が見られ、わが国における挽臼の利用も一般的になったと思われる。
☆小麦栽培の本格化
奈良・平安時代の五穀は通説では「米、粟、黍、麦、大豆」とされているが、後代の鎌倉時代の五穀は「米、大麦、小麦、緑豆、胡麻」(1213年『仁王経修法問答』、1261年『五大虚空蔵法支度注文』)となっている。つまり、前代の粟、黍が雑穀に落ち、麦が昇格して大麦、小麦に細分化されている。また、雑穀についても(1291年『高野山文書之七』、1324年『上久世御年貢公事用余事』)、前代の「粟、黍、稗」から、稗が脱落して蕎麦が昇格し「粟、黍、蕎麦」へと変化している。このように大麦、小麦、蕎麦などの食材が多く栽培されるようになったことの背景には、挽臼の利用があったからである、と「江戸ソバリエ・ルシック 寺方蕎麦研究会」の伊藤汎先生は指摘されている。
【伊藤先生の著書『つるつる物語』】
☆わが国麺類の初出
さて、麺というものが宋にあることを知り、挽臼を輸入し、穀物を粉にすることが可能となったわが国の麺類の普及ぶり(初出ぶり)を、文献の初出表から見てみると、先ず素麺が宋国から伝わり、そして饂飩、蕎麦ができたようだ。
年 | 麺 類 | 文 献 | 筆 者 |
1340 | 素麺(ソーメン) | 『師守記』 | 中原師守 |
1347 | 饂飩(うどん)注1 | 『嘉元記』 | 法隆寺の記録 |
1351 | 麺を器に盛っており、老僧らしき者が旨そうに汁の味見をしている。 | 『慕帰(ぼき)絵詞(えことば)』巻五 | 沙弥如心画本願寺三世覚如(かくじょ)の伝記 |
1405 | 冷麺(ひやむぎ)注1 | 『教言卿記』 | 山科教言 |
1438 | 蕎麦(そば) | 『蔭凉軒日録』 | 相国寺の塔頭鹿苑院の公用日記 |
1450 | 切麦(きりむぎ)注2 | 『大上臈御名之事』 | 御所の女房言葉集 |
1489 | 『四条流庖丁書』注3 | 多治見備後守貞賢 | |
1574 | 蕎麦切(そばぎり) | 『番匠作事日記』 | 定勝寺文書 |
注1:素麺製造法には二通りある。(1)油混入法と(2)油不入法である。(1)素麺は、油を入れて練って引き伸ばし、限りなく細くすることができ、保存食として有効となる。一方、わが国の禅僧たちは、(2-1)油を入れずに引き伸ばし、細くなる前に切れるその寸前に引き伸ばしを止めたものを「冷麺」、(2-2)さらにその前の太い段階で伸ばし止めたものを「饂飩」と名付けた。
注2:小麦粉を練り、庖丁で切って麺にしたもの。当初麺類は引き伸ばし法で作られていたが、このころから切断法で作られるようになった。
注3:俎の名所・寸法などから記載が始まり、続いて具体的な料理法や、箸・膳の飾り方なども記載されている。
☆江戸蕎麦 ― 日本独自の麺
(1)ここで注視したいのは、切麦である。中国宋代でも絰帯麺、紅絲麺、翠縷麺という切麺があったようで、それを倣ったかどうかは分からない。しかし、日本の土壌として『四条流庖丁書』が著されたように刀、庖丁を使って、切ることが日本の料理の主体だったことが大きいと思われるが、アジアの多くの国において押し出し麺が主であるなか、独自の切り麺文化に育っていったのである。
(2)そうしてもうひとつの日本ならではの特色がある。それは純化ということである。
よく、中国料理は世界各国へ進出して行き、その地に順応していくといわれる。具体的にいうと、具などはその地の食材をどしどし取り入れていくのである。
一方、日本の料理は、それを受け入れる段階においてほとんど壁というものがないが、一旦とり入れたら、まるで急流で洗い落されるように余分なものは落とされ、最後には最も日本的なものへと純化させていく。
この (1)切りと(2)純化の作品が「江戸蕎麦」であることはいうまでもない。
参考:「江戸ソバリエ」誕生(第46、50、51、53、54、57、58話)、伊藤汎 講師「江戸ソバリエ・ルシック 寺方蕎麦研究会」、伊藤汎『つるつる物語』(築地書舘)、韓国のKBC制作『ヌードル・ロード』、栄西『喫茶養生記』(講談社学術文庫)、道元『典座教訓』『赴粥飯法』(講談社学術文庫)、東福寺所蔵「水磨の図」、竹内理三編『鎌倉遺文』鎌倉遺文研究会、中原師守『師守記』、『嘉元記』、山科教言『教言卿記』、『蔭凉軒日録』、『大上臈御名之事』、『番匠作事日記』、ほしひかる筆「フードボイス = 蕎麦談義 第43話」、
〔江戸ソバリエ認定委員長、寺方蕎麦研究会発起人☆ ほしひかる〕