第657話 ド ラ マ

     

☆言葉のマジック
   日本の政治家の言葉というのはそのまま信用してはならないということは決まり切っている。たとえば「善処する」「これから検討する」というのは間接的な断わり文句である。本気ならその場で回答できる力はあるはずだが、それを「後で・・・」というのは既にノーという結論が出ているわけである。しかし、大手メディアはそのようには報道せずに、「善処する」「これから検討する」と言ったと直接的に報道する。それをすっかり素直になってしまった近頃の日本人はそのまま信用する、というわけである。
 そんなだから、「安倍一強といわれる・・・」が実態のない言葉であったことや、それを信じることがどんなに危険なのかは656話で述べたのに、やはり人々はる信用した。安倍政治を継承すると言った菅を受け入れたのも、その証拠だ
   せいぜい言葉の表現が豊かだとでも受け取っておけばいいのに、困ったものだ。ともあれ、この件は日本語の性質に起因する問題だから、また機会があったらとり上げたい。     
   ところで話は飛ぶが、決まり文句というのも気を付けなければならない。 
   たとえば、最近よく耳にする「新聞離れ、本離れ、テレビ離れ」という文言だ。こういう情報はあたかも新聞や読書がもう古いかのように思わせるところがる。要注意だ。実際は、このコロナ禍で、新聞記事をよく読んでしっかり自分の考えをもつようになったソバリエさんもいるし、図書館や大手本屋はいま人気である。
   ある作家がこんなことを言っていた。保守派を自認する政治家に訊いたところ『古事記』も『日本書紀』も読んだことがないという。『古事記』などを通して保守の思考回路を鍛錬していない彼らは、いったい何を保守しようというのか?
   この思考回路というのは、二択・三択的なクイズ番組では育つことはない。文字や映像を通した物語が想像を助けてくれる。

☆ドラマ 
   と、大上段に振りかざしながら、何のことはない最近面白かった映像、つまりTVドラマ『半沢直樹』『ハケンの品格』『SUITS 2』を通して、過去・現在・将来の社会を述べてみたいだけだ。
 
   先ず『半沢直樹』の方は、時代劇型の勧善懲悪の熱い話だからスカッとしていて面白い。このドラマは「顔の演技」と呼ばれるくらい、顔を大映して、口や目や鼻の孔さえを大きく開けて唾を飛ばし、普段なら口に出せないような思いや気持を叫びまくる。
   原作者の池井戸潤は銀行出身らしいが、彼が勤めていたころまでは日本の銀行は強かった。ソバリエの初期の方たちにも元銀行員という人が多いから彼らが働き盛りのころはああいう風だったのだろう。ある人とかつてはテリトリーだったという日本橋を一緒に歩いたら、会社や店の台所事情に詳しかったから、驚いたものだった。
   しかし2016年に日銀がマイナス金利政策をとってから、金融界は世知辛くなった。今や外国勢に押されている。なぜそうなってしまったかは、次の話と関係する。

 次の『ハケンの品格』は、現代の派遣および非正規雇用の悲哀、ならびに正社員さへ迂闊にしてはいられないというコメディだ。
   ドラマで描かれているのは、前からお話している新自由主義そのものである。つまり合理化効率化のために正社員を減らし非正規雇用を増やしたが、合理化とは貪欲なものである。終わるところがない。やがては正社員、そしてついに社長まで合理化の的になるという皮肉なコメディタッチのドラマである。ここでわざわざ「コメディタッチ」と言ったのは、決してお笑いではなく現実だからである。

 話は変わるが児童書に『モモ』という作品がある。ここで問われているのは、「合理化効率化された時間はいったい何処へ行ったの?」ということである。主人公の少女モモは奪われた時間を取り戻そうと闘うわけであるが、敵は『武器としての「資本論」』で弾劾されている新自由主義そのものである。
   K・マルクスといい、M・エンデといい、第一級の知識人はとうの昔に今の危機を指摘していたということになる。

 さて、日本でその時間泥棒的な事を演出した首相がいる。それが小泉首相である。
 2001年、首相選のとき、彼は一番形勢が不利だったが、選挙制度を巧みに利用してひっくり返し、圧勝した。当時私は、あんなズルイ選挙はないと何かに書いたことがあった。というのは、当時の党員たちは実は五分五分で皆迷っていた。事実蓋を開けると小泉のわずかな辛勝であった。それが地方票総取り制度によって小泉圧勝になるわけである。そのときメディアはすでに小泉人気にのっていた。だから、事実を報道せず、小泉圧勝を何と議員選の前に流した。当然、議員は小泉に雪崩をうって投票したというわけである。対立候補者すらあっけらにとられるぐらいのマジックだったが、メディアが権力に加担した面が大きかったと思う。
   その後の、衆議員選挙のときも、TVの某政治評論家も「選挙というのは皮肉になものですねえ。絶対投票してはいけない人たちが、率先して彼に投票するのですねえ」と呆れ顔で言った言葉が今も忘れられない。

   新自由主義者の小泉は「聖域なき構造改革」をキャッチフレーズに規制緩和、民営化を進めていった。「聖域なき」とか「構造改革」いう言葉は魔物だった。正義のように聞こえるのである。もちろん、それが必要な業界もあることは認めるとしても、それは医療界も教育界も容赦なく、合理化されていった。その結果、コロナ禍に対して合理化された医療体制のままで対応できない状態に陥り、また治療薬の開発は外国頼みとなったのはわれわれが体験した通りだ。また将来の日本にとって一番大事な教育が荒れる一因になったという指摘はあとをたたない。
  郵政民営化の際には、亡き四方洋さんが郵政を民営化したら、日本の金融界は外国に負ける。ましてや日本から〝公〟の概念が消失してしまうから、絶対避けなければならないとおっしゃっていたことも思い出す。
   いずれにしろ、雇用規制緩和は1996年ごろから業種が拡大し始めていたが、小泉首相時代に一段と緩やかになっていって、現在の二極化社会にいたるわけである。
    政治ということを、一歩譲って時代の流れという面もあるだろうが、ここでの最大の皮肉はそういう父親をもつ小泉孝太郎を『ハケン』に起用したことである。いったい誰が思いついたのだろうか。それともたまたまであり、そこに気づいたのはねじれた眼をもつ小生だけなのであろうか?と苦笑してしまう。
    マ、とにかく、これを言いたかったから、『ハケン』を言い、ついでに『半沢』や『SUITS 2』を述べているくらいである。

    最後の『SUITS 2』は、都会の高層ビルに広大にオフィスをもつ弁護士事務所の話である。主演は織田裕二と中島裕翔、そして鈴木保奈良美、中村アン、新木優子。織田裕二はずいぶん大人になったものである。中島裕翔は若手のイケメン俳優として売り出し中。そして鈴木保奈良美、中村アン、新木優子は本屋に行けば女性誌の表紙を飾っている人気モデル。女性陣は衣装もマメに取り替えている。という風だから、最初に『SUITS』を観たとき、何とシャレたドラマかとの印象をもったところから、将来のビジネスドラマ『SUITS』、現在のビジネスドラマ『ハケンの品格』、過去のビジネスドラマ『半沢直樹』を頭に描いて観ていた。
   しかし、後になって、このドラマがアメリカのテレビドラマ『SUITS』のリニューアルということを知ったのは、イギリスのヘンリー王子の結婚相手がそのドラマに出演していたメーガン・マークルだというような話からだった。
   オリジナルはマンハッタンの大手弁護士事務所での物語という内容だから、私が将来のビジネスオフィスはこうであろうと思ったのもマア間違いなかったと思う。
    ところが、コロナ期に始まった『SUITS 2』はさらにストーリーが面白くなったが、一方では大都会の高層ビルのビジネスオフィスというエリートスタイルは、今後どうなっていくのだろうかと、微妙な感じをもたざるをえないところである。というのも、コロナ政策を行わなかった日本は、今や先進国の地位から滑り落ちるのは時間の問題だといわれている。そうしいう日本のビジネス界はコロナ以前に戻ることができるだろうかと危惧するわけである。

☆明日の日本 
 民主主義というのは歴史・過去を検証せずして前に進んではならないという。だからドイツはヒットラーの過ちを二度と繰り返さないために、過去を検証する、よって政府に信頼が寄せられているらしい。
  それに比べて、日本人は終わったことは忘れてしまうところがある。だからこそ、敢えて雑談を通して、今話は2001年~06年前の、前話は2006年~20年の世相について述べてみた。
   安倍政治とは何もしなかったと私は見る。それは経済状況を先行する株界を観てもそうである。日本の株式市場はすでに日本人の力はない、70%が海外投資家である。その彼らは売り越しを続けている。その理由をアナリストたちはこう見ている。日本の政治の貧困である。具体的には①日本企業は国際競争力を失った、②財政赤字、③コロナ後の政策ビジョンがない。①は小泉時代に失われた。たとえば日本企業のスクラムの強さの原因だった、長期雇用・年功賃金が壊され、人材も技術も海外へ流出したことは多くのの人が指摘している。そして②③は安倍政治であることはすでに述べてきた。
   しかし、そういう安倍を国民は支持している。その理由はプリンスだからである。加えて、日本人は有事を受け入れることを嫌がる。常に平時であることを願う。  コロナ禍も他人事であってほしいと願っていた。ところが芸能人の死でもってやっと身近な事として目覚めたときはもう遅かった。
   それでも国民は何かやって失敗するのを良しとせず、何もしない人を好む。何もしないて失敗するのは失敗に入らない、仕方がないと思うからである。ここが古い。プリンス嗜好はさらに古い。まるで江戸時代の若様人気の感覚そのままだ。
 政府は、国民に「密」を禁止しながら、この度の総裁選では密室で安倍継承を決めて、いつのまにか国会議員の70%は従っている。これも古い。
   それを許しているのはわれわれ国民である。そこが日本の政治の貧困さである。
   これからは政治と経済と国民生活部門の公開討論しかない。密室の扉を開かなければならない時である。

文・挿絵 ☆ エッセイスト ほしひかる