第658話 われわれは1980年代生まれ

      2020/09/14  

 現在は1980年代に始まる。これまで生きてきて世相を観て、私はそう思う。
  そこで、656話で2006年~20年安倍らの政治を、657話で2001年~06年の小泉政治を述べてきたので、今回(658話)はそれらの源である中曽根政治(1982年~87年)について述べてみたいと思う。
   中曽根康弘という人は、小泉や安倍と違って骨のある人物であったことは間違いない。彼の政治姿勢である「政治家は歴史の法廷の被告である」を置き換えて、「われわれ歴史の法廷の被告である」とすれば、小市民の私ですら座右の銘の真似事ぐらいにはしたい文言である。
   
   中曽根の政治特色については、述べたい点が二つある。
   一つはいわゆる「ロン・ヤス会談」であり、もう一つは国労(国鉄労働者組合)潰しである。

 1983年、中曽根はアメリカのレーガン大統領を日の出町の山荘に招き、和食と日本酒とお茶で歓待し、「ロン」「ヤス」と呼び合う仲を演出した。その背景には日米関係の複雑さがあった。「なぜ日本はアメリカに従わなければならないか」は簡単である。敗戦したからである。だからといって「いつまで日本はアメリカに従わなければならないのか?」と誰しもが燻るものをかかえていた。この心理の虚を突いて保守本流に属さない中曽根はアメリカ大統領と親しい友人関係になったことを見せつけた。これによって日本人は、これまでとはちがった対等意識感をもつという利が生じ、国民も大歓迎した。しかし、これまでの日米関係からみれば中曽根の演出は賭けだった。失敗すれば日本は悲劇に陥るところ、中曽根は賭けに買った。
   ところが、中曽根以降の小泉外交(ブッシュ大統領)や安倍外交(トランプ大統領)をアメリカと上手く付き合っているとの報道をしているが、何のことはない中曽根の真似をしているだけである。と私は見るが、辛口の政治学者白井聡は「小泉政権から、日本の利益はどうでもよくなり、アメリカに貢ぐだけだ」とかなり辛辣であるが、事実である。

 二つ目の国労潰しについて、後に取材を受けた中曽根は、「国鉄労働組合が崩壊すれば、総評も崩壊することを明確に意識してやった」と答えている。つまり国鉄の赤字経営克服を建前にして国鉄の分割民営化をやってのけたが、本音の狙いは総評・社会党潰しにあったわけである。これによって団結していた労働者の団体は、個々バラバラになってしまって力を出せなくなった。
   この影響は想像以上に大きかった。国労とか、労組とかを越えて、全国民が反論も反発もしなくなったのである。結果的には見事に国の仕組みや、国民性まで変換させた、大戦略であった。
   だから、「政治の季節が終わった」とも言われたが、政治を越えて日本国民は、羊のようにおとなしくなったのである。

 もちろん日本国民が羊になったのは①中曽根政治のせいばかりではない。このころから②カタカナ文化③マニュアル化が始まり、その結果、日本は1990年代ごろから「やさしさの時代」に入っていったことは630話の「やさしさの精神病理」で述べた通りだ。
   われわれが関係する世界でいえば、「食通」が「グルメ」という言葉に代わったのも1980年代からだった。カタカナだと伝統のしがらみがないため、そこから平気で「B級グルメ」なんていう造語が生まれ、浸透していった。日本語の食通のままだったら、「B級食通」などといわれたらバカにされているようで、流行らなかったろう。しかし、漢字は右脳で理解し、想像力を育むというが、カタカナではそれが殺されてしまって、日本人そのものがB級となってしまった。
   ところで、世間にはいろんな方がおられるようで、日本で上映されている洋画の題名を分類している奇特な人がいる。それを見ると、カタカナと直訳の題名は65%、意訳の題名は21%、説明過多の題名10%らしい。
    たとえば、昔の「大いなる西部」とか「お熱いのがお好き」とか「心の旅路」という題名だと作品の意図が想像できるが、「オール・アイズ・オン・ミー」「アイ・ソー・ザ・ライト」「キャッチ・ミー・イズ・ユー・キャン」なんていう題名の映画なんか何を言ってるのか理解しがたいし、「ここは日本だぞ」と呆れてしまうが、現実である。
   それでもカタカナ文化は進んでいく。なぜだろうか? よくわからない。
    ただ私は、現代日本の語学教育の怠慢によって、自分も含め外国語が理解できない国民だからだと思う。それでも雰囲気だけを味わいたいということから安易にカタカナを享受しているのではないだろうか。しっかりした国語・英語教育をしていればこのような貧しい傾向はさけられただろう。
   『シン・ニホン』というAIの本の著者ですら、一に国語、二に数学教育が大事だと訴えている。国語教育が読解力・思考力を育てる。世界に役立つ人材には必要だと。
   脇道の話になるが、同著者によると、日本の数学教育のレベルは高いが、数学が好きという学生は世界で最低ランク、つまり技はもっていてもヤル気が育っていないだという。これすなわち羊化である。

 さて、次がマニュアル化であるが、これを述べ始めると話が終わらない。ただ、小生が社内ベンチャーとして医療情報会社を立ち上げたとき、日本人の熟練技術者にはマニュアルは不要であると世間が猛反対する時代であった。またしばらくは確かにそうだった。しかし、バイトとか非正規雇用、臨時採用とかが増えてくると、マニュアルなくして動かなくなった。それとともに考える必要がなくなったので、レベルの低下が始まったことは言うまでもない。
   先に述べた政治学者の白井は、こんなことを述べている。山本太郎議員が「安倍政権の安保政策は、アメリカのアーミテージのレポートの写しそのままではないか」と質問したところ、他の議員は白けた顔をしてたという。「お前、それを言っちゃおしまいだヨ。そんなことは国会議員なら皆、承知していること。お前はバカか」と彼らの目は言っていたという。ここまで国会議員は堕落しているというわけだ。
 とにかく、昔の国民は権力に対して、反発心があった。そういう国民を中曽根は羊にすることに成功した。しかし歩調を合わせて政治も堕落した。併せて、カタカナ化マニュアル化が追い打ちをかけたということだ。

 先ごろの首相選候補者の3名の記者会見が放映されていた。
 三人の候補者のうち、最も惚けてズレているのが菅氏だろう。彼は安倍政治を継いで雇用が大事だと言っている。間の抜けたというか、本末転倒とはこのことだ。なぜなら、日本企業の国産競争力は低下している。日本の働く人は、中曽根政治によって結束力を奪われ、小泉政治の非正規雇用化によって会社への貢献心を奪われた。これで日本企業が強くなるはずがない。
   今の日本にとって大事なのは企業の国際競争力を向上させることだ。現状のままでは、先進国の地位から陥落する。嫌だったら、はやく優れた人材の登用と結束力を図り、そして企業の国際競争力が強くすること。そうすれば、雇用は自ずから拡大する。
   中曽根は日本を羊化したから、B級政治家もつくった。その集合体が、B級首相を選ぼうとしている。

 以上、1980年代の中曽根政治から小泉政治、そして安倍政治までの不甲斐なさを述べてきたが、言えば言うほどわれわれ国民の民主度の低さに気づかされる。
   そこで、最近よくいわれることだが、近現代の危機と革命時は二度あった。そして三度目がコロナ禍である。
   一度目は黒船、二度目は敗戦。いずれも「強く生き抜く力」をもっていた日本は立ち上がることができた。
   したがって、三度目のコロナ禍で最も望まれるのは、強く生き抜く力をもつ人づくりである。

文・挿絵 ☆ エッセイスト ほしひかる