第672話 蕎麦の花咲く頃

     

『世界蕎麦文学全集』物語14

 中国山東省の「蕎麦むすめ」は海を越えて、朝鮮半島へ渡った。と思えるような小説を20世紀の韓国の作家李孝石が書いている。
 それが李の故郷の平昌郡蓬坪を舞台にした小説『蕎麦の花咲く頃』(1936年)である。
   蓬坪はソウルから東へ約2時間、海抜700mに位置する所にある。途中から蕎麦畠が山の麓に散在し、その白い花に目をうばわれる。蓬坪を流れる興亭川の畔まで来ると、2万坪の蕎麦畠が広がっている。 
   李は小説のなかで、「咲きはじめの花が塩をふりまいたように快い月明かりに映えて、息詰まるようであった。赤い茎が漂う香気のようにほのかに透け、驢馬の足取りも軽い」と山腹に白く咲く一面の蕎麦畠を美しく描写している。 
   ここで、『蕎麦の花咲く頃』の主人公は、村一番の別嬪といわれる娘と出会ってしまった。しかし翌日、娘の一家はそろって蓬坪から消えた。村人たちは、極貧ゆえに「娘は売りとばされた」と噂した。主人公の許生員という名の男は貧乏の上にあばた面、女とはまったく縁のない寂しくねじけた半生をおくってきたが、あの夜の娘の姿だけはけっして忘れることができない。許は平昌郡内の村の市場を巡って行商を続けている。平昌郡にいるかぎり何処かでまたあの娘と会うことができるかもしれないとの切ない思いをだいていることすら自分でも気付かない愚直な男。
 小説は、これだけである。哀れで寂しい話だけれど、白居易の「村夜」同様の詩情がある。

 そんな蓬坪では毎秋、蕎麦祭が行われる。道端には往年の市場にも似た店が並ぶ。加えて2017年は清州と蓬坪で第13回目の世界蕎麦シンポジュウムが開催された。韓国で蕎麦のシンポジュウムを開くなら、李の小説の舞台である清州と蓬坪しかないということだろうか。もはや作者の李孝石は韓国の蕎麦の神様となったようである。

『世界蕎麦文学全集』
  39.李孝石『蕎麦の花咲く

文・絵  江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる