第680話 アルプス山麓のポレンタ

      2021/01/13  

『世界蕎麦文学全集』物語22

  『いいなずけ』(河出文庫)という小説がある。イタリアを代表する作家マンゾーニの作品である。その小説に《ポレンタ》が取り上げられていることは何かで聞いて知っていた。しかし本は上・中・下からなる長編である。長編が苦手な私はなかなか手が出ないままであったが、思い切って読んでみた。
  それにしても「いいなずけ」とは懐かしい言葉である。「カレシ」(TVドラマの字幕では「彼氏」ではなく、なぜか「カレシ」と表示される)と言ったり、ひどいときには「元カレ」(こちらも絶対カタカナで「カレ」と出る)と言ったりする今の人にわかるだろうか? 漢字では「許嫁」とか「許婚」と書く。岩波文庫では『婚約者』と訳してあるが、同じ意味である。
 舞台は、17世紀の秋、スペイン支配下にある北イタリア・ロンバルディアのアッダ川とコモ湖辺りの小さな村。そこに住むレンツォルチアいいなづけ、村の教会で結婚式を挙げることになっていが、ルチアを気に入っている悪徳領主の横槍で、結婚式を挙げることができないでいる。そこでこの二人は、村を出ることにした。昔の物語らはよくあるパターンである。しかしその後、想像を絶するような苦難の人生が始まる・・・。裏切、陰謀、戦乱、飢饉、ペストの狂気のなか二人の運命は・・・!

  ところで蕎麦好きの人は、このヴァルテッリーナ地方が麦パスタ《ピッツオケリ》蕎麦粉で作った《ポレンタ》などの故郷であることはご存知だろう。
   《Pizzoccheri》は、イタリア商工会議所が主催する《ピッツォッケリ》教室で作ってみたことがある。
   蕎麦粉8:小麦粉2から、蕎麦粉2:小麦粉1ぐらいで任意の比率の混合蕎麦粉を捏ね、延し棒などで伸ばして成形することで作られる。幅10㎜、厚さ1.5㎜、長さ70㎜の短冊状の麺である。
 《Polenta》は一般的にトウモロコシの粉で作るが、この地方では蕎麦粉を入れる。鍋で煮ながら木の棒で外側から内側に向かって搔き混ぜるらしい。
  当然、ロンバルディアが舞台の小説『いいなずけ』でも《ポレンタ》が登場する。

Ca' Rezzonico - La Polenta - Pietro Longhi

  ~ レンツォが台所を覘くと、トーニオが竃の段に片膝をつき、片手では、熱い灰の上においてある銅鍋の縁を掴み、もう片方の手では曲った麺棒で、蕎麦粉で作られた灰色の《ポレンタ》を搔きまぜていた。テーブルにはトーニオの母と弟と妻が座っていた。三、四人の子どもらは、父親の脇に立って、鍋を見つめてついでもらうのをじっと待っていた。
  ただし、そこには苦労してそれにありついた者たちに普通なら与えられる食事を前にした喜びはなかった。《ポレンタ》の大きさは、その年の収穫に見合っていたが、食事をする者たちの数には見合っていなかったからだ。
  トーニオは、食卓に並べられていたブナの木でできた 皿に《ポレンタ》をついだが、それはぼんやりとした暈の大きな円の真ん中にある小さな月のようだった。
  女たちはレンツォにも《ポレンタ》をすすめるが、それは食事時に訪れた者への挨拶みたいにものだった。

 ソバリエならイタリアの《ピッツオケリ》《ポレンタ》は聞いたことがあるだろう。しかしそれらはフランスの《ガレット》のような〝世界食〟にはなっていない。理由はイタリアの蕎麦生産量が少ないこともあるだろう。イタリアは世界の蕎麦生産量で30位以下である。パスタ王国のイタリアとしては、パスタをいかに美味しくするか、いかに美味しくいただくかかが需要であって、蕎麦はあまり眼中にないのだろう。そんな中、スイスとの国境の山岳地帯にあるヴァルテッリーナ地方は、寒く、土地が痩せていおり、小麦の栽培が困難なために蕎麦が作られてきて、《ピッツオケリ》や《ポレンタ》がアルプス山麓の寒村の〝郷土食〟となった。
  そうした郷土食というのは無理して世界食になることはない。その土地で食べてこそ郷土食である。

 

『世界蕎麦文学全集』
47.マンゾーニ『いいなずけ』

:江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる
Pietro・Longhi画「Polenta」:ネットより