第689話 宣教師フロイスの日欧文化比較

      2021/01/19  

『世界蕎麦文学全集』物語 31

  「分かることとは、分けること」だという。逆に言えば「分ければ、分かる」ということにもなる。分ける作業で最も適切な方法は比較表である。
 というわけで、『世界蕎麦文学全集』の海外紀行から日本へ帰ってきたばかりのときは、比較論から入るのは適当であると思う。
 その比較論において、史上初の日本とヨーロッパの文化比較論を書いた人物がいる。それが戦国時代に来日した宣教師ルイス・フロイス(1532~97)である。名前はご存知であろう。
 フロイスはポルトガル人。1562年に長崎に上陸し、宣教のため日本各地を訪れて、織田信長や高山右近や豊臣秀吉らと会っている。その間にフロイスは「このような文化の開けた、想像力旺盛な、天賦の知性を備える人々の間に、こんなに極端な対照があるとは信じられない」と驚きながら、日本人を観察し続け、『日本史』や『日欧文化比較』を1585年に長崎の加津佐でまとめ、秀吉によって残忍にも磔の刑に処せられた二十六聖人の殉教(1597年)を目撃した後、世を去った。
 フロイスの『日欧文化比較』は衣食住その他にわたっているが、個人的に気になったところだけを見てみよう。ただし(  )は小生の注釈。

1.われわれは食物に種々の薬味を加えて調味する。日本人は味噌で調味する。
  (醤油は江戸中期から広まったが、それ以前は味噌で調味。)   
2.われわれは甘味を好む。日本人は鹹味を喜ぶ。
  (日本人の鹹味嗜好は昭和まで続いていた。)
3.われわれは食事の前と後に手を洗う。日本人は食品に手を触れることがないから手を洗う必要はない。
4.われわれは食事の際に椅子に掛けて脚を伸ばす。日本人は脚を組んで畳の上に座る。
5.われわれの料理は少しずつ運ばれてくる。日本では全部一緒に載せて出される。6.われわれはを使って食べる。日本人はを用いて食べる。
7.われわれはスープがなくても食事をする。日本人はがないと食事ができない。
  (ご飯・汁物・香物が和食の基本。)
8.われわれは麺を食べるとき熱い、切った物を食べる。日本人は長い物を冷たい水に漬けて食べる
 (ここは《パスタ》と《素麺》の相違を述べているから、われわれ麺好きにとっては重要である。
  つまり日本人は戦国時代の昔から涼味の麺を嗜好していたのである。今でこそ日本の《ざる蕎麦》を模してイタリアでも《冷製パスタ》が考案されたが、日本人が涼性の麺を好むのが奇異に見えたようである。)
9.われわれはいつも彼らの汁を鹹く感じる。日本人はわれわれのスープを塩気がないと感じる。
10.われわれは砂糖シナモンをつかって麺を食べる。日本人は芥子唐辛子をつかって食べる。
(山葵が一般的になったのは江戸時代から、このころは昔からの芥子と、渡来して間もない唐辛子であったのだろう。)
11.われわれは鶏や家鴨を飼っている。日本ではせいぜい子供たちを喜ばせるために雄鶏を飼うくらいである。
 (ここは蕎麦好きにとっては重要である。
   つまり、なぜ《鴨なん》が誕生したかというと、江戸時代の日本人は鳥を食べるといえば、山鳥か水鳥で庭の鶏は食べなかった。だから日本橋の鳥問屋では鴨を売っていたから、日本橋の蕎麦屋が《鴨なん》を考案した。
  日本人が鶏肉を食べるようになったのは明治からである。ただし長崎出島の外国人は鶏肉を食べていたので、出島を交代で監督管理していた佐賀鍋島藩と福岡黒田藩の武士たちが真似て早くから食べ始めていた。江後廸子の調査によると、幕末の佐賀藩の武士は贈答用に鶏肉を利用していたという。したがって長崎⇒佐賀⇒福岡⇒はチキンロード的な外来文化の路があり、その結果博多の《水炊き》が郷土料理として名物になったと思われる。)
12.われわれの間では口で大きな音を立てて食事することやワインを一滴も残さず飲み干すことはは卑しい振舞とされている。日本人の間ではその両方とも礼儀正しいとされている。
 (大きな音・・・は有名な話になったが、実際は汁などはる、その結果として音が出るといった方が正しい。ではなぜ啜って食べるようになったか。フロイスの服装の項に、「われわれの袖は狭い。日本人の袖は緩い」と観察してる。緩い、詳しくいえば着物の袖の袂が長い。浮世絵を見ると若い娘の袖は異常に長いことは改めて言うまでもないが、ここで西洋人のように食器を置いたまま食べれば振袖が他の器に入った食べ物に触れて汚れることになる。だから日本人は食器を手に持って直接口を付けて汁などを啜るようになったのである。)
13.われわれの間では「招待された者」が「招待した者」に礼を言う。日本人の間では「招待した者」が「招待された者」に礼を言う。
  (ここは日欧比較論で重要なところである。つまり和食の発展を考える場合、見逃せない観察といえる。
   ヨーロッパの宴は、臣下に働いてもらうために王が臣下を招いた。だから招待された臣下が招待した王に礼を言う。
  日本の宴は、臣下が殿を信頼していることの証に、臣下が殿を自邸に招いて宴を催す。また殿は臣下を信頼しているという証に、少人数で臣下の屋敷へ乗り込む。もしかしたら、臣下の部下たちに殺られるかもしれない危険性があるとのにである。
  何事もなく無事に宴が終われば主従の契が結ばれたことになる。だから招待した臣下が招待された殿に礼を言う。
  これが日欧の宴の基本的な相違であるが、ここから食文化は大きく違ってくる。)
 
  以上、フロイスの眼が見た『日欧文化比較』からわれわれが気づくことはたくさんある。とくに12.にあるように慣習・文化というのは、衣食住、その他が絡み合って生まれたものであることと、13,にあるように宴、あるいは食というのは、仲間どうし信頼を求める心から生まれたということである。


『世界蕎麦文学全集』
56.ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』

文:江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる
フロイス墓地 (ネットより)