第691話 山葵の日本人、唐辛子の韓国人

      2021/01/26  

『世界蕎麦文学全集』物語33

 珍しいレシピの料理を食べるのときはまるで軽音楽でも聞くかのように楽しい。
  その一方で、いつもの、簡素な《ざる蕎麦》もやっぱりおいしい。緑の風のような爽やかな山葵、濃く光るつゆ。啜る原始のような蕎麦の味は、旨い。至福の時である。

 ところで、この山葵の辛さというのは、口にすると「ウウ・・・」と下を向いて目を瞑って堪えて我慢しなければならないところがある。それと比べて唐辛子の方は口にすると「ワッ!! カライッ」と大声で発散したくなる。
 そんな薬味の辛さの違いを持ち出したが、ここでご紹介するのは薬味の本ではない。日本人と韓国人の文化比較である。著者の呉善花氏(1956~)は、山葵唐辛子の違いを日本人の心情〝もののあわれ〟と韓国人の心情〝恨〟の違いのようであるという。上手い比較だ。なぜなら、〝もののあわれ〟は内面の弱さを抱え込む生き方であり、〝恨〟は弱さを解消しようとする生き方だからだという。

 それから、呉氏は、日本人は自然に対して受身であるから、自然と人間の境界がないという。たとえば日本人が文句なく好きな露天風呂は、自然と人間が互に溶け込み合っているような世界だという。
 たしかに、自然との境界がないといわれれば、「鎮守の杜」と呼ばれる神社がそうだろう。神は、山や杜や川や岩などの自然界にお在すというわけだ。
  それは食においてもそうであるという。
  たとえば日本人は、さんざんご馳走を頂いても最後は質素なお茶漬けで〆て満足する。これは物事を極めて原点に到る道と同じであるという。  
 原点とは自然に戻るようなことである。食において、切っただけの生のままを刺身と称するのもそうだろう。蕎麦界において私たち蕎麦好きは蕎麦そのものの味を活かしている《ざる蕎麦》が大好きである。外国人から見れば、簡素で単純な「蕎麦だけ」を食べて満足するとは信じられないことである。湯豆腐や冷奴などの「豆腐だけ」で満足するというのも理解しがたいということになる。
  こうした傾向を〝生の文化〟だといった論理を展開しているの書であるが、なるほど、なるほどと読み進めてしまう。
 しかし、自然に対して境界がないからこそ、〝生の文化〟が生まれたのは結構なこととして、これまでの規模を越える台風、地震、あるいは温暖化問題をかかえる昨今、自然に対してこのままの受身姿勢でいいのかという新たな課題が生じてきているのはどうしたものだろう。

  たかが生蕎麦、たかが生の山葵ではあるけれど、自然と境界のない日本文化をこれからどう活かすべきかが試されようとしているのではないかという気がする。

『世界蕎麦文学全集』
59.呉善花『ワサビの日本人と唐辛子の韓国人』

文・絵:江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる