第692話 日朝中 楡文化圏

     

『世界蕎麦文学全集』物語34

  江戸ソバリエの天野氏から韓国ドラマ『オクラン麺屋』のDVDをもらったので、拝見した。
 《冷麺》を軸として朝鮮民族、父子愛、父の昔の恋、息子の現在の恋が絡んでゆく。なにせ「オクラン」という店の名は父親の若いころの最初の妻の名前だというところが振っている。妻が北鮮へ一時帰国したときに戦争勃発。以来離れ離れというわけである。いい映画だったが、われわれ日本人はわからない悲運である。
 ところで、そのドラマの中で楡の皮を粉にしたものを混ぜて蕎麦を打つと、香り高い、すっきりした後味の《冷麺》ができるという話が出てきた。
 韓国の《冷麺》はサッパリした汁が魅力で、はまってしまいそうになるくらいが、それは汁に梨を入れているせいのはずだった。でもこの映画では楡ですっきりさせるという。初めて聞いた。
 楡の皮を粉にするという話は、中国の『斉民要術』(6世紀)や日本の『延喜式』(927年)に掲載されている。楡の皮を搗いて粉にして飲食用にしたらしい。
  また『万葉集』(奈良末期)には、「難波江で採った草蟹を楡の皮の粉と一緒に搗いて砕き、塩を垂らして瓶に入れて製した」とある。古代の味付けは塩()と梅()が主体であったが、辛味のある蓼や辛子や楡を使って塩辛の蟹の生臭さを消していた。蓼や辛子のことは分かるが、楡の内皮も、嘗めると唐辛子のような辛味がするらしい。

 この蟹の塩辛はわが故郷佐賀の名物《蟹漬》(佐賀では《ガニツケ》とか《ガンツケ》などと言う)の祖だ、と食べ物史研究家の間では定説になっている。ただし現在の《蟹漬》は楡ではなく唐辛子を使用している。ただ《ガンツケ》の蟹の甲羅のジャリジャリ感は佐賀人以外にはとても耐えられない食べ物である。
 そういうこともあろうが、とにかくこの映画を観て、「中国大陸(『斉民要術』)朝鮮半島(『オクラン麺屋』)日本列島(『万葉集』『延喜式』)が「文化圏」であったことを改めて認識した。

 ただ、牧野富太郎は、元来楡は大陸の産でシベリアから中国ならびに満州にかけて広く生じている大木であり、楡は日本に産しないから、わが国で「ニレ」とされているのは、実は「楡」ではないと述べながら、楡のどこが食べられるのかを紹介している。

 それによると、そのわかい実とわかい葉とわかい皮がそうであるらしい。
 楡の実は、初め緑色で軟かく、それを採って煮て食する。新芽の葉も茹でれば食べられる。楡の樹の白色で軟かい生の内皮を掻き取り食用にするのだが、それは粘滑質で餅などに入れて食する、いわゆる楡皮である。この内皮を取って乾燥して磨して白い粉となし楡麺(ユメン)に製して食べるものがいわゆる楡白粉である、と。
 残念ながら、本来の楡も日本のニレも、口にしたことがないから、ここでは何とも言えない。が、往古「楡文化圏」があったことだけは史料から否定できない。機会があったら、一度中国の楡を見てみたいし、それを試食たいし、また楡の皮粉を混ぜ蕎麦も食べてみたいと思いながら、「圏」の字をジッと見ていると、の中の字が楡の字に見えてくる。ともあれ「文化」というのはそれを共に口にするという意味だったのかと思ったりした。

『世界蕎麦文学全集』
60.キム・ジョンヒョン監督:チョ・ヨン脚本『オクラン麺屋』

文:江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる
写真:蟹漬