第701話 甲州天目山 業海本浄
『世界蕎麦文学全集』物語 42
小金沢山(2014m)、牛奥ノ雁ケ腹摺山(1994m)、黒岳(1988m)、大蔵高丸(1781m)、ハマイバ丸(1752m)の山々の向こうに富士が見える。
ここ甲州天目山棲雲寺にて、江戸ソバリエ神奈川の会は平成27年から蕎麦切奉納を行っている。
天目山棲雲寺は、尾張藩士の天野信景の著『塩尻』に「蕎麦切発祥の地」と書かれてから有名になった。
天野信景という人物は、和・漢・博物の広い知識をもっていたため第一級の知識人とされており、資料価値も高い。しかしながら文章内容から判断すれば、蕎麦についてはあまり詳しくないような印象をうけるところがあるが、江戸時代のことであるから致し方ないだろう。
棲雲寺の開山は業海本浄(1284~1352)。一般ではあまり知られていない人であるが、そういう人の生涯を描いた小説『業海禅師』を見つけた。「歴史探偵」を自称する私は、こういう希な本に出会うと嬉しい。ただ残念ながら、蕎麦についての記述はなかった。
が、それによると、業海は1318年に元へ渡った。元朝は第11代皇帝、日本では鎌倉北条執権14代目高塒のころだった。
業海は杭州天目山(浙江省杭州)の中峰明本に参じて1326年に帰国した。それは北条執権15代貞顕のとき、つまり北条政権が終わろうとしているころであった。
彼の入元と帰国には、明叟斉哲(?~1347)と古先印元(1295~1374)と一緒だった。帰国の際は、他に日本へ赴く元僧の清拙正澄(1274~1339)と、中峰明本の下で修行を積んだ無隠元晦(?~1358)・復庵宗己(1280~1358)・寂室元光(1290~1367)と、千岩元長(元僧)が一緒だった。
業海は、甲斐と縁のある明叟斉哲・古先印元・寂室元光と多少の交流があったらしいが、独り恩師中峰明本の教えを守って“宗教家”に徹し、やっと足利尊氏の代の1348年に甲州に天目山を開いた。業海が帰国後22年も経ってからの創建になったのは、鎌倉幕府滅亡から室町幕府樹立までの混乱期間にあったためだろう。
彼が開山した甲州天目山はもともと木賊山といわれていたが、当山が浙江省杭州市の天目山によく似ているということからここ甲州の地を選んだといわれている。
1326年 業海、帰国
1333年 鎌倉幕府滅亡
1338年 足利幕府樹立
1348年 業海、栖雲寺創建
浙江省というのは、前に入宋した栄西・道元・円爾らも訪れた日本からの留学僧にとって聖地であった。
1168年 栄西、南宋の天台山(浙江省)、阿育王山(同省)、蘆山(江西省)で修行、
1187年 栄西、再び南宋へ入り、天台山で修行、
1191年 栄西帰国、
1211年 栄西『喫茶養生記』を著す。
1232年 道元、南宋の天童山(浙江省寧波市)で修行、
1227年 道元帰国、
1237年頃 道元『典座教訓』を撰述。
1235年 円爾、南宋の徑山(浙江省杭州市)で修行、
1241年 円爾帰国、「水磨の図」を持帰り、日本に挽臼を持込んだ。
そのころの南宋の首都・杭州には高級料理店が多数存在していた。
これについては下記のほしエッセイ「外食店の祖 誕生」で少し触れた。
⭐参考 https://www.edosobalier-kyokai.jp/pdf/20161223hoshi8.pdf
彼らが持ち帰ったのは仏法のみならず、その背景である南宋の点心(饅・麺・菓・茶)文化があり、修行のためとはいえ入宋入元した彼らもその状況をよく観ていたのだろう。そこから『喫茶養生記』『典座教訓』「水磨の図」、そして業海の蕎麦切などが生まれたのかもしれないことを思うと、この時代の浙江省というのはさらに研究する必要があるだろう。
〔天目山栖雲寺の境内に、「蕎麦切発祥の碑」の説明板が立てられた。その原案を小生が書いてみたが、蕎麦界のためにお役に立てた嬉しい記念になった。〕
『世界蕎麦文学全集』
83.天野信景著『塩尻』
*日野四郎『業海禅師』
文:江戸ソバリエ認定委員長 ほし✫ひかる
ほし絵:天目山より富士山を望む