第720話 深大寺白鳳仏はどこから?

     

 明治になって突然姿を現した深大寺白鳳仏はいったいどこからやって来たのでしょうか。多くの人が研究していますが、まだ明らかになっていません。
  でも、少しでも前に進むために当時(白鳳・天平時代)の大和の景色を観てみたいと思います。

 先ずは、日本の白鳳仏は現在、次のようなものが知られています。
  ・法隆寺の金銅菩薩立像(651年:法隆寺)、
  ・金銅菩薩半跏像(666年:法隆寺)、
  ・橘寺の金銅弥勒菩薩半跏像(666年:現大阪野中寺)、
  ・夢違観音像(法隆寺)、
 ・阿弥陀三尊像(法隆寺・橘夫人念持仏)、
  ・香薬師像(新薬師寺)、
  ・薬師三尊(薬師寺)、
  ・聖観音(薬師寺)、
  ・山田寺講堂銅造薬師三尊像中尊の頭部(興福寺)、 

 ・観音菩薩立像(島根 鰐淵寺)、
  ・聖観音立像(兵庫 鶴林寺)、
  ・一乗寺の聖観音像(兵庫 一乗寺)、
  ・薬師如来像(千葉 竜角寺)
 ・そして、釈迦如来倚像(東京 深大寺)です。

 実は、この一覧の後半部に白鳳仏の特徴があります。つまり飛鳥仏に比べて白鳳仏は地方の豪族がその土地に定住した渡来人の力を借りて寺院を建て、その古寺に安置し始めていたのです。
  ということは、深大寺白鳳仏も現地で造立された可能性があるわけです。

 さらにもう少し深く観るために、亀井勝一郎が〝兄妹仏〟つまり同じ流派に属する作者ではないかと言った大和の香薬師如来像を見てみたいと思います。ただし深大寺の白鳳仏も謎ですが、香薬師如来もそれ以上の謎の仏像です。といいますのは、香薬師はこれまで三回(明治23年.明治44年.昭和18年)も盗難にあい、今もって行方不明のままなのです。したがって専門家でさえ明治に撮影された写真とレプリカで研究しているのです。
 その大和の香薬師像というのは、光明皇后(701~760)が春日山中に香山寺を創建(736年以前?)したときの本尊でしたが、聖武天皇(701~756)の病平癒を祈願して新薬師寺を建てた(747年頃)ときに七仏薬師如来像の胎内仏となりました。したがいまして現在は「新薬師寺の・・」と言われますが、もともとは光明皇后の念持仏だったというわけです。
 その光明皇后は、藤原安宿媛といって父藤原不比等母県犬養美千代(橘夫人ともいう)の娘です。そして母美千代は白鳳仏の阿弥陀三尊像を念持仏としていました。そうなのです。母娘が白鳳仏を念持仏としていたのです。
  また、夫君の聖武天皇は父文武天皇と母藤原宮子の子ですから藤原氏の血統です。そこで気になるのが藤原氏の氏寺興福寺(創建669年:開基藤原不比等:奈良市登大路町)の存在です。
 興福寺では、730年には光明皇后の発願によって塔が建てられ、734年に光明皇后は母美千代の菩提を弔うために西金堂を建てました。
  注目したいのは、726年に聖武天皇が元正太上皇后の病平癒を願って建立した興福寺東金堂です。その元正女帝という人は722年の詔で蕎麦栽培を奨励したことで知られています
 ところが現代の昭和12年になって、解体修理中の興福寺東金堂本尊の台座の中から、何と旧山田寺講堂の薬師三尊像の仏頭(白鳳仏)が発見されたのです。旧山田寺というのは大化の改新の立役者だった蘇我倉山田石川麻呂が685年に建てた寺です。元正女帝というのは石川麻呂のひ孫にあたりますから、病平癒を願って旧山田寺の薬師三尊像を本尊としたのでしょう。

                                                                              
                                              藤原安宿媛
蘇我山田石川麻呂ー蘇我姪娘        藤原宮子   Ⅱ
          Ⅱ  ー❻元明女帝   Ⅱ  ー❽聖武天皇
        ❶天智天皇   Ⅱ  ー❺文武天皇
               草壁皇子 ❼元正女帝  

 そこで、香薬師像、深大寺釈迦像に加えて山田寺の仏頭の、三画像を並べて拝見しますと、山田寺仏頭より、やはり亀井勝一郎が指摘したように深大寺釈迦像は香薬師像に似ています。そうであっても他の白鳳仏より山田寺の仏頭の方が系統はつながっているように見えます。では、山田寺、香山寺、興福寺の仏工はつながりがあるのでしょうか。それも全く分かりません。
 しかし古代の仏工としましては、中国南梁からの渡来系といわれる鞍作止利、後漢からの渡来系とされている山口大口百済からの渡来人国中公麻呂らの活躍がよく知られています。山口大口は法隆寺金堂の広目天像や百済観音を造ったとされ、国中連公麻呂は東大寺廬舎那仏の造像と大仏殿建立の指揮を執ったことは分っていますが、それ以上のことは分かりません。
 ここでたしかなことは、仏工はいずれも渡来人系だ、ということです。
 ここで「仏教伝来」について、述べたいと思います。
 よく教科書に「仏教伝来」と載っていますが、正しくは「仏教文化伝来」だと思います。飛鳥・白鳳時代の人たちは、単に宗教力に伏したわけではないと思います。大陸に渡った日本人や大陸からやって来た渡来人がもたらした文化、すなわち日本が持っていなかった文字高い技術をもった建築、彫刻・絵などの仏教文化に圧倒されてこぞってとり入れたのだと思います。
 ただし、鞍作止利は飛鳥仏ですから、少し時代が遡ってしまいます。ですから山口大口以後、国中連公麻呂以前の山田寺、香山寺、興福寺系の仏工の分派が武蔵国にやって来て深大寺の白鳳仏を造立したとは考えられないでしょうか。
 そうであるとしましたら、香薬師が736年以前とされていますから、そのころに武蔵で釈迦像は造立されたのでしょう・・・か。

 さて、それにしても関係する白鳳仏には奇妙さが付きまとっています。
 香薬師像は盗難のときに右手が切断され、明治44年にその右手だけ見つかっていますが、奇しくも深大寺釈迦如来倚像の右手の指も折れています。
  飛鳥の山田寺の仏頭は昭和になって興福寺の本尊の台座の中から発見されましたが、奇しくも深大寺釈迦如来倚像も元三大師堂の須弥壇の下から発見されました。
  どうしてこのような痛い目に遭うことになったのでしょうか。それこそ仏教では縁ということよく言いますが、何か因縁があるのでしょうか。これも謎です!

〔深大寺そば学院 學監・江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる〕