第729話 かろのうろん

     

                                                     ~麺が好き~

☆麺が好き 
 昨日今日と陽性者数が過去最高となった。ちょっと不気味なところもあるが、故郷の佐賀にどうしても外せない用件があったため、現地へ向かった。幸いにも午前中早めの行動だったせいか、空港も駅も思うほどの混雑もなく、また機内の席は間隔を置いてあるので、あんがい整然としていたので安心した。
  飛行機は真っ青な空の下、白い入道雲の上を快適に飛んでいる。コロナ禍でも、夏の空というのは勇気を与えてくれる空である。
  佐賀には昼前に着いた。でも約束の時間までは余裕がある。その前に昼食をとることにしたが、私は帰郷したときは1回は麺類を食べることにしている。冬は《ちゃんぽん》か《とんこつラーメン》、夏場は《皿うどん》が定番なので、今日は《皿うどん》にした。「うどん」と称しているが、実は中華麺いわば《汁なしちゃんぽん》である。もちろん両方とも、東京で食べられないことはないが、郷土食というのは郷土の広い空と懐かしい山並みを眺めながら食べる物だと思う。
  そもそも佐賀という所は【麺王国】である。子供のころの日曜日の昼食は、どの家庭も冬は《饂飩》、夏は《素麺》だった。冬の饂飩は軟らかく温かく、夏は冷たい水を張ったガラスの器に素麺が泳いでいた。江戸の蕎麦は水切れを求めて笊や簾に盛るが、九州の夏の素麺は〝涼味〟第一である。氷は氷屋から買ってきたカチ割りだった。そこが子供には楽しい。幼い空想力を活かして氷が氷山になったり、素麺が魚になったりするから、ガラス器の中をグルグル回していると、「ほら、遊んでないで、さっさと食べなさい」と母親に叱られた。また時には、大サービスで瓜や胡瓜も浮かべてあることもあった。そうすると空想では瓜が戦艦になったりする。少し前、有馬美季子著『縄のれん福寿~出立ちの膳』という小説を読んでいたら、《真桑瓜素麺》が出てきたので懐かしく思った。またその小説には《真桑瓜蕎麦》まで登場していたが、これは料理研究家の林幸子先生の会で作ってもらったことがあるが、今でも忘れられない逸品である、なんてことを思い出しながら、懐かしさを頂いた。
  昼食をとった後、ホテルに向かった。私の実家はもう誰も住んでいないから更地にしている。だから佐賀に行ったときは、料理が美味しいあけぼの旅館か、景色のいいホテルニューオータニに泊まることにしている。時間はもう少しある。今度はホテルでお茶を飲んだ。《嬉野紅茶》である。これが丸みがあって好きだ。葉は紅茶ではなく、嬉野緑茶の品種である。東京でも何処かのホテルで出会ったことがあるし、紅茶専門の喫茶店にも置いてあったが、とにかくこの優しい味覚の嬉野紅茶を飲みながらホテルの窓の外に広がっているお濠をぼ~っとして眺めたくて、帰ってきたようなものだ。
  実家の跡はこのホテルからやや左の方へ歩いて10分もかからない。少年のころ兄弟同様だった竹馬の友と群れて遊びまわった所である。遊んで疲れ切って家に帰ったら、冷たい《真桑瓜素麺》を腹いっぱいに食べる。
 とまあ、こんな少年時代の夏休みを思い浮かべるだけで、あの日の濠の水の匂い、夏の匂い、蝉の大合唱がしてくる。
 こんな私が蕎麦に関わっているから、「なぜ九州の人が蕎麦?」とよく言われる。答えは簡単である。九州の人間はつるつる麺が好きだからである。中国や韓国を旅して痛感するのは、彼らも麺が大好きで、蕎麦麺、小麦麺、雑麺と何でもありである。おそらく麺文化圏に最初に加わった九州にもそういうところがあるのだろう。だから「西は饂飩、東は蕎麦」と無理して区分けしたのは、わざわざ「スイ(粋)をイキ(粋)」と言ったり、銀つばがあるのに、金つばを作ったり、京紫に対抗して江戸紫を考案したりしたことと同様に江戸っ子の意地であったのだろう。そのわりには「蕎麦は江戸で完成した」と申上げてもエッ?という顔をされるので、上梓した新刊は『新・みんなの蕎麦文化入門~お江戸育ちの日本蕎麦』とさせていただいた次第である。

☆かろのうろん
 用件が終了したので、福岡空港から発つために博多へ行った。
 そこで《かろのうろん》を思い出したので寄ってみた。思い出したというのは、いつもいつも都心の美食を食べ歩いておられる謎の美女(フードアナリスト・某大学講師)がいらっしゃるが、どうしたわけか明治創業の老舗とはいえ博多の庶民的な「かろのうろん」屋に顔を出されていることがあったので、それを思い出したからである。
  博多駅から海岸方向に向かった。地下鉄なら一つ目の祇園駅で下車すればいい。右へ行けばソバリエなら誰でも知っている承天寺、左へ行けば櫛田神社。この神社は神崎市(佐賀県)の櫛田宮の分社である。祭神は櫛稲田媛。平清盛がそれまでの日宋貿易の拠点だった平家領の神崎から、博多へと拠点を移したときに勧請した。
 有名な祇園山笠は、この櫛田神社と承天寺に疫病退散を祈願して奉納する。なぜなら祇園祭を始めた聖一国師という人であるが、国師が南宋臨安の萬壽寺に留学したとき、宋の貿易商人謝国明の船団に乗って入宋した。その謝国明は櫛田神社創建に協力しているし、帰国した国師が承天寺を開いた時も謝国明に支援してもらったという関係だからである。
 また聖一国師は、帰国する際に禅宗に付随する点心の慣習も伝えようとして挽臼をわが国に持ち込んだ。それ以降、日本で粉食文化が始まった。だから承天寺には「饂飩蕎麦発祥之地」と「御饅頭所」の碑が建てられている。
  さて、「かろのうろん」屋は櫛田神社に抱かれるようにして道路の角に佇んでいる。庶民的な古民家のような店である。久しぶりだったが、昔とまったく変わっていなかった。さっそく《こぼ天》と《丸天》と二杯注文した。「丸天」というのは、東京でいう「薩摩揚げ」の大きく丸い物。しかしこちらでは「薩摩揚げ」とは言わない。そして「揚げ」と言ったり「天麩羅」と言ったりする。なぜなら東京から見るほど、それは単純ではなくあちこちにいろんな由来があるからである。
  また九州は饂飩にもラーメンにも薬味のをたっぷりかけるのが特徴である。食べていると気のいいおばちゃん(まだ若そうなのに失礼)がさらに葱を追加してくれる。
  一昨日、小松庵銀座店で薬味の漫談会をしてきたが、「江戸の薬味は少量、それが粋」と申上げたばかりである。これも九州の葱の多さから見て、その違いに注視したことである。
 とにかくとにかく、粉食文化上陸の地の祇園で饂飩を食べるのは乙なものである。「かろのうろん」の飽きない美味しさを、ぜひ麺好きの入門編としておすすめしたい。

〔江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる〕
写真:皿うどん、お品書き、佐賀の町
嬉野紅茶、お濠、ほし絵「堀端の楠」
かろのうろん、祇園山笠