第751話 敦盛蕎麦

      2021/11/21  

   大田区の「美月」という蕎麦屋に《敦盛蕎麦》があると、横浜一茶庵の片倉先生が教えてくれた。
 その「美月」は多摩川の矢口の渡の近くにある。路線は池上線蓮沼駅か、多摩川線矢口渡駅下車。自宅から遠いが、それだけ楽しみである。なので行き帰りは別にしようと、帰りは蓮沼駅からにすることにし、行きは矢口渡駅で下りた。歩いて行くと老舗の和菓子屋の前に「右 東海道、左 中山道」という石標が佇んでいた。何か旅の感じがしてきた。目指す店は、そこから直ぐだった。

  現在【江戸蕎麦】として一般的な涼味の《ざる蕎麦》《せいろ蕎麦》は江戸中期ごろからの登場で、それまでの江戸初期の江戸の蕎麦屋は《蒸し蕎麦》を供していたといわれている。ただし《蒸し蕎麦》といっても、蒸籠で蒸していたわけではなく、蕎麦を茹で、ぬるま湯でさらりと洗って、煮え湯を掛け、器に盛って冷めぬように蓋をして「蒸籠様」にして出していた。要は十割蕎麦が切れないような供し方であった。
  それが江戸中期以降、涼味の二八《ざる蕎麦》が一般的になると、この温性の蕎麦を《熱盛り蕎麦》とよぶようになり、やがて江戸ではいつのころからか廃れていった。
  ただ、江戸から伝わった《熱盛り蕎麦》は関西では暫く続いていたという。
  そんなところへ摂州(神戸市須磨区一ノ谷)の平敦盛の五輪塔の近くの蕎麦屋が《敦盛蕎麦》を商い始めた。ただし、これは《掛け蕎麦》であって《熱盛り蕎麦》ではなかったが、世間では「敦盛」を粋に冠して《熱盛り蕎麦》も《蒸し蕎麦》も《敦盛蕎麦》と呼ぶようになった。

 現在、《敦盛蕎麦》を名物としている店として「ちく満」(堺市)などがあり、東京では「美月」が供してくれる。「美月」は母娘三代で営んでいるが、祖父の代から《まかない食》として食していたから注文すれば応えてくれる。ただ《まかない食》だから「お品書」には書いてない。それゆえに《敦盛・熱盛》の謎が解けたような気がした。

  つまり店主と客は文字ではなく言葉でやりとりする。
  客が「あつもり(敦盛)一枚」と注文すると、店主は「あいよ、あつもり(熱盛)一枚」と応じる。
    あるいはその逆もあったかもしれない。
   「美月」の初代は、敦盛、熱盛のどちらのつもりだったのだろうか、不明である。

 ただ、「熱盛」という言葉は、歴史上「平敦盛」がいたからこそ、生まれた言葉であることは間違いないだろう。そうすると《敦盛蕎麦》が登場したのは江戸中期ごろらしいから、そのころから《蒸し蕎麦》も《熱盛》も《敦盛》と呼ぶようになったのではないだろうか。
   こして登場した、温味の《敦盛蕎麦》は冬蕎麦としておいしい。またこうした湯通し法は《茶蕎麦》の場合とくに香味が際立つ。
  湯通しするだけのことであるが、このような形で蕎麦文化を守ってもらえるのは嬉しいことである。

〔江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる〕