第760話 ヴァルテッリーナの《ピッツオケリ》Ⅱ
2021/12/18
イタリア、ヴァルテッリーナの《ピッツオケリ》の楽しかった試作会については先日ご報告した。(第757話)
そのときのことを宮本学さんと高橋さんが録画されていて、もう少し情報を加味してきちんと編集したいから、何かコメントしてほしいということになった。
さすがはプロデューサーである。最後にまとめたいというお気持はよくわかる。
それにしても、イタリアという国は古代ローマ帝国を建国し、ルネサンス文化を咲かせ、さらに現代ではスローフード運動の展開と、常に世界史に創造力を与えている国である。そんな国の食文化について他国者の小生なんかが語れるものではない、というスタンスは「ヴァルテッリーナの《ピッツオケリ》Ⅰ」でも「Ⅱ」でも同じである。 だが、せっかくだから「Ⅰ」では触れなかったことだけを述べてみようと思ったが、これは私の論ではなくあくまでイタリアの学者たちの見解である。
井上靖に「エトルスカの石棺」という詩がある。偶々巡り会って感銘していたところ、しばらくしてブリジストン美術館で「エトルリア ~ ギリシャとローマを結ぶ黄金の文明展」が開催(1991年5月)されていたので、観に行ったことがあった。(エトルスカも、エトルリアも同意)
エトルリア人というのは、イタリアの先住民族で紀元前8世紀から紀元前1世紀まで栄え、ローマに吸収された。
ところがである。エトルリア(ローマ近郊のチェルヴェーテル)の石室のレリーフに麺棒とかカッターとかが彫られているのが発見された。それらからイタリアの学者たちは古代に《古パスタ》ともいうべきものが作られていたと解釈した。もちろん当時は《パスタ》という概念はない。小麦粉食品を揚げたり、煮込んだり、細長く切ったりして加熱したりした食品の一つだという意味であるが、その切って加熱したものが現在の《ラザーニャ》につながるものらしい。そしてその《古ラザーニャ》もローマに引き継がれたという。
しかしその後、ローマ帝国は滅び、ゲルマン人が侵入してくるとイタリアの食は荒れていった。イタリア食は低迷の時代に入ったのである。
それでも時代は流れる。末期が過ぎ、晩期が来ると、その先に夜明けが見えてくる。
10世紀ごろから北イタリアのロンバルディア平原では農業が復興しはじめた。それが機となったのか、イタリアは息を吹き返してルネサンス期に入る。絵画・彫刻・建築あらゆる面において古典復興に基づいた新文化の花が咲くのである。
そのころ、つまり10~11世紀ごろの北イタリアで、古に焼いていた《古ラザーニャ》を茹でるようになった。これが《生パスタ》の誕生、であるらしい。
それからチーズ、バター、オリーブオイルを使うようになり、16世紀ごろにトマトと出会って現在の《パスタ》の形になる。こうした世紀の出会いは各国にある。韓国の《冷麺》と唐辛子の出会いもそうだろう。日本の場合、蕎麦とつなぎが出会って《二八蕎麦》が誕生し、蕎麦つゆも、食べ方も変わったといえるだろう。
一方の、南の《乾燥パスタ》は「Ⅰ」で述べた通りだが、17世紀に〝アルデンテ〟を主張するようになった。
以上がイタリアの《生パスタ》と《乾燥バスタ》誕生物語になるだろう。
主題である、ヴァルテッリーナの《ピッツオケリ》については、「Ⅰ」で述べたように蕎麦栽培がなされた16世紀以降に村人の手によって創作されたのであろう。さらに正確には同じく「Ⅰ」の参考でふれた《ポレンタ》の歴史を見てみる必要があるかもしれないが、そこは小生の手に負えない分野になるから、ここでは《ピッツオケリ》は16世紀以降の創作としておこう。
さてさて、2011年のことだった。私は銀座5丁目を歩いていた。すると、ある画廊の前で「堀文子 エトルリアに魅せられて」展の案内が目に入った。むろん迷わず飛び込んだ。
「アフガンの女王」や「幻の花 ブルーポピー」などの美しい絵で知られる堀文子は当時95歳、おそらく最後の個展だったと思われるが、詩人や画家たちを魅了させたエトルリア文明にすっかり憧れてしまった私は、《古パスタ》はエトルリアの味がすると信じている。
参考:アモロソ フィリッポ「トスカーナ料理のルーツを探る~古代エドリア人から伝えられた食文化」
写真:堀文子展の絵はがき
〔江戸ソバリエ & チーズ・オブ・コムラード
ほし☆ひかる〕