第772話 「棒」と「なわ」

     

~ 蕎麦文学紀行 番外編 ~

 「なわ」は、「棒」とならんで、もっとも古い人間の「道具」の一つだった。「棒」は、悪い空間を遠ざけるために、「なわ」は、善い空間を引き寄よせるために、人間が発明した最初の友達だった。~ 安部公房 ~

 拙著『新・みんなの蕎麦文化入』で、人間が4000年前の太古に麺を創作したのは、縄や紐からの発想だった、と私は唱えた。
  そのことに気づいたのは、安部公房の小説『棒』と『なわ』を読み直したときだった。
  昔から安部公房は気になる作家だったが、この二作品はとくに難しくかつ怖い小説だった。
  『棒』はビルの屋上で子供たちと遊んでいるうちに父親の方があやまって落ちてしまうが、落下の途中から棒になってしまった。そしてその棒が道路に落ちても群衆のなかで誰一人気にとめる者はいなかったという話。
   『なわ』は二人の幼い姉妹が父親の首を縄で絞めて殺すという話だった。  
 そして『なわ』の作品の方には、冒頭の言葉が記されていた。
  「棒」が漢字で表記しているところが「棒」という道具の戦闘性、「なわ」がひらがなにしてあるところは「なわ」という道具の平和感を表しているのだろうと思った。

  後に、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』を読んだが、これも同じ線上にある怖い小説だった。
  人間はコンビニという便利なツールを作ったはずなのに、押し付ける巨大メディア情報(CM)に人間は従属化させられ、いつのまにか社会全体がコンビニ化、ファストフード化され、やがて人間はマニュアルにしたがって生きていくのが一番幸せなのだと思うように慣らされたという話である。
  慣らされるとは、まるで麻薬患者と同じである。だから読んでいる途中から気味の悪さに襲われて、本を投げ出したくなるほどだった。
  遡ると、安部公房も、人類は悪いことを追うための道具、善いこと引き寄せるための道具を発明したのに、その道具に人間は負けてしまっていることを描いていたことを知った。

  さて、コロナ禍になってもう3年目。相変わらず日本政府は無策である。
  先日も馬鹿な政治家たちが2歳の児童にもマスク着用をと〝真剣〟になって言い出した。だが専門家たちが一蹴したところ、またもや政治家が押し返しうやむやにしてしまった。着用は目的が納得できなければ意味がないことは素人でも分かる。マフラーや手袋はそれを着用すれば寒さが防げることを幼児でも実感できるが、衛生上の理解は幼児には無理だ。だから代わって大人が防いでやらなければならない。だというのに、政治家たちは〝真剣〟になって主張する。馬鹿者たちが真剣になれば危険であることは、かつての軍部の暴走で経験済みである。
  誰も感じているだろうが、今は世界中の政治家(経済人も)のレベルが低い。だから国内外ともに危険な方向に向かっている。
 日本では、電車に乗れば〝繰り返し繰り返し〟仕事のオンライン化を勧める国交省からのお知らせアナウンスが自動的に流れている。また街では食のデリバリーが横行するようになった。
 オンラインでは情報は伝達されても感情は絶対共感できない、と脳学者が言っている。だからオンラインでは真の理解は不可能なのである。
  デリバリー食は腹を満たすが美味しさは得られない、と本物の料理人は言っている。だからデリバリー食では幸せにはなれないのである。
  コンビニもファストフードも、オンラインもデリバリーも、人間にとって毒である、と哲学者が言っている。なぜ毒かというと、こうしたカタカナで表記された便利・簡便・横着システムは人間関係を分断し、一人ひとりの人間を孤独化することによって成り立っているからである。
  コンビニ化現象をおさえ切れなかった日本社会は、いまオンライン、デリバーリの増殖を招いている。
  この状況を安部公房ならどんな予言小説にするだろうか。
  社会はネットやデリバリーでさらに張り巡らされ、動かぬ孤独人間は退化し、脳と目と口と肛門だけの生き物になっているのだろうか・・・。

  コロナ後は、「本来の棒」、「本来のなわ」の役割を取り戻そうというシン・ルネサンス紀にしなければならない、と紐状の蕎麦は言っている。

〔エッセイスト ほし☆ひかる〕