第798話 江戸蕎麦の薬味

      2022/07/29  

~わさびサミット2022~

 女優の黒木瞳さんが「寿司屋」という詩を書いています。
 そのなかに「わさび とりもつ ねたと飯」という一文があります。この「とりもつ」という言葉に「わさびは単なる脇役じゃありませんよ」という主張が感じられて面白いと思います。
   というわけかどうかは分かりませんが、わさびを主役にした「わさびサミット2022」が三鷹市主催で開かれました。サミットの趣旨は都会で育つ山葵として知る人ぞ知る《三鷹大沢わさび》を食文化として育てようということからです。
  《三鷹大沢わさび》は、伝えられているところによりますと、今から150年以上の昔のこと、江戸で仕官しようと伊勢から来た小林宮吉という若者が、縁あって大沢村の箕輪フデと結婚して箕輪家を継いで政右衛門を名乗ったといいます。政右衛門は大沢の里の豊富な湧水を見て、故郷の村に近い伊勢神宮の五十鈴川の上流に自生している山葵を大沢村で栽培しようと思い立ったのが大沢村の山葵の始まりだそうです。
  それが今まで栽培が続けられれてきたのですから、いい意味での「都市伝説」みたいな話です。それも大沢の山葵は小さくても味がよかったからだといいますが、在来種ですからそうかもしれません。ただ背景としましては江戸の食文化と合っていたからでしょう。
  江戸では中期ごろ、江戸の水に合った濃口醤油と鰹出汁が開発され、史上初の「江戸の味」というものが完成しました。たとえば海の物はそれまで和え物料理でしたが、そのあたりから醤油を付けて食べる《刺身》が分派しました。そのとき山葵が薬味として使用され始めたのでしょう。似たものとして《板わさ》も江戸の蕎麦屋で見られるようになりました。もちろん涼味の《ざる蕎麦》にも薬味として使われ始めました。それまでの蕎麦の薬味は辛味大根と葱でした。
   この「大根と麺」という組み合わせは、鎌倉時代の留学僧円爾が中国の麺文化をわが国に持ち込んだときが始まりですが、江戸中期ごろから蕎麦麺が江戸で日本化するにしたがって薬味も日本の固有種であります山葵にかわっていったのです。
   そして《握り鮨》にも山葵が使われ始めましたが、正確にはいつごろなのかは分かりません。といいますのは、江戸後期に屋台から出発した《握り鮨》の当時のネタは漬けであり、大きさは今の稲荷寿司くらいでしたから、山葵がどう使われていたかは微妙なところです。それに《握り鮨》の薬味は昔も今もガリです。
   そういうこともありますが、一般的になりました《刺身》《板わさ》《ざる蕎麦》《握り鮨》と山葵、という組み合わせには理由があります。それは山葵の辛さが冷たい刺激(TRP A1)によるものだということです。だから刺身、蒲鉾、蕎麦、鮨ネタという涼性の食に冷たい刺激の山葵を合わせたというわけです。これは日本の「涼味文化」といえると思います。
 黒木さんの感性語「とりもつ」を化学的にいえば「TRP A1」がとりもっているといえるのかもしれません。これは唐辛子の辛さが熱い刺激(TRP V1)によるものですから、唐辛子は温かいかけ蕎麦とかうどんに使うということと真逆な食になるわけです。このhotな関係は世界の多くの食べ物に見られます。
  さらに食べる側から言いますと、蕎麦の薬味と刺身の薬味は違ってもししような気がすると漠然と思っていましたところ、料理研究家の林幸子先生がズバリとおっしゃったことがありました。刺身類には鮫皮で細かく擦った山葵が美味しく感じられますが、蕎麦などは繊維質が残るように下ろし金でザックリ下ろした山葵が合います、と。
 これで納得したのですが、しかしこれらはあくまで基本でありまして、将来の山葵の利用はどのような関係や形になるかが楽しみなところです。
  ただ、個人的体験をひとつ加えさせていただきます。
  かつて山葵の取材で雑誌社の方と伊豆へ出かけたときのことです。
  お土産に、根はもちろん茎や葉付きの山葵を頂戴したので、手にぶら下げて歩いていたところ、町の人、しかもお二人から「山葵は茎も葉も食べられるからね」と声を掛けられました。
   ところが、続いて某所に取材に行きましたところ、同地区のあるていど名の通った蕎麦屋さんでお蕎麦をいただきましたが、残念ながらチューブの山葵でした。
   町の人の山葵愛、誇りに差があることを痛感したのであります。
  本日、サミットに登壇された岐阜大の山葵研究の第一人者山根杏子先生、三鷹市と大沢の里古民家(三鷹市)ボランティアの皆様、調布市の都立農業高校神代農場部(調布市)の高校生、調布市深大寺の蕎麦店の浅田様や、江戸野菜の大竹先生、各地の山葵生産者様には、山葵愛、大沢愛、深大寺愛に満ち満ちていましたので、日本の山葵の大いなる希望を感じた次第です。

絵:伊勢神宮五十鈴川にかかる宇治橋
写真:薬味とざる蕎麦
参考:ほし ひかる『新・みんなの蕎麦文化入門 ~ お江戸育ちの日本蕎麦』

              〔江戸ソバリエ協会 ほし☆ひかる〕