第803話 「栃の木や」から「紡ぎ」へ
2020年の2月から世界の歴史が後ずさりを始めた。
原因の一つが新型コロナ禍であり、もう一つが大国の侵略である。
「歴史は動く」という。この「動く」ということは発展するものだとわたした漠然と信じていた。ところが、新型コロナ禍と大国の侵略によって歴史は後退することもあることを知った。これを「海老の後退現象」というらしい。海老は前を向いていながら、後方に飛び跳ねるというわけだ。
後退を見逃したのは、世界中の政治家、経済人、マスコミだと思う。
話は違うが某事件に対する、ここのところの大臣たちの弁明には、「わが国の大臣は、あのていどか」と呆れるほどである
新型コロナについては、カミュの『ペスト』、エドガー・アラン・ポーの『赤い死の仮面』、ジョゼ・サラマーゴの『白い闇』、志賀直哉の『流行感冒』を読めば、過去のペストやスペイン風邪のとの闘いの様が描かれている。だから対策も読み取られたはずだ。それらには、病はやはり「早期発見、早期治療」しかないことがくみ取られる。
「早期発見」の点から見れば、日本はとくに水際対策があまかった。それを非難した作品が志賀の『流行感冒』である。主人公は、スペイン風邪を家庭内に持込む行動を厳禁する命令を家族に伝えた。だからそれを破った女中をクビにした。後にその女中が嫁入りするという話を聞いた主人公はできるだけのお祝をしてあげた。流行病を憎んで人を憎まずを小説にしたのである。
また、「早期治療」の点から見ても、医療はなすすべもなかった。医療体制は国が推進してきた病床数の合理化政策によって、何の手も打てなかった。治療薬の開発も国の後向きのジェネリック政策によって、後手にも及ばなかった。
国は、無策に替えて、お得意の「われわれ一人ひとりが注意しましょう」の連呼するだけであった。そのため学生、若者が青春を奪われ、働き盛りの人たちの気力を削いだ。
江戸ソバリエ認定講座も2年間開講できなかった。仲間の蕎麦屋さんも店を閉めた人もいた。
そんなとき、休息を宣言していた「栃の木や」さん(江戸ソバリエの店)が8月に戸田市笹目で再開するという知らせが入った。
さっそく、ソバリエの桑子さん、飯高さん、山島さんと一緒に駆けつけた。
新店名は「紡ぎ」だった。
その日いただいた《大葉切》はきれいなものだった。
新店舗の大家さん的立場の内藤さんは、もともと会社を経営しながら、趣味で蕎麦打ちを始めた人だった。その後、会社は長男さんに譲り、一方では趣味が高じて蕎麦屋(栃の木や)を開いて、その蕎麦店は次男さんに任せた。しかしコロナ禍によって蕎麦店の方は一旦休息状態に入り、そしてこの度再び立ち上がったというわけだ。その再起への意志の強さに感心する。それはやはり会社経営で培われた信念と、親父としての意志からだと推察する。
そんなことを思いながら啜った今日の《大葉切》は見事だった。さらに「栃の木や」時代に完成させた《胡椒切》の腕もたいしたものだった。
こうした江戸蕎麦の優れた技術は蕎麦界に残してもらいたいものだと願っている。
〔江戸ソバリエ協会 ほし☆ひかる〕