第818話 高遠蕎麦

     

高遠行=2

 旧城下町高遠に着いた。町の家並みは整然としていて、好ましい雰囲気であった。
  この町のご城下通りに蕎麦屋「壱刻」がある。開店前からお客さんが並び、店内は満席、私たちは予約していたので座れた。
  さっそくに、入野谷在来の《高遠蕎麦》を注文した。高遠蕎麦というのは、大根の絞り汁に焼味噌を溶かして蕎麦汁にする。
   絞り汁に焼味噌を溶かしながら私は、この高遠の蕎麦の祖は、京の蕎麦だと直観した。理由は味噌、大根が寺社で多く使用される物というところだろうか。それゆえに寺社の保護者である宮家の人々も味噌あるいは蕎麦切を食していたのである。たとえば、霊元天皇は臣下の冷泉為久に蕎麦切を賜ったため、お礼に為久は「寄蕎麦切恋歌」を献上している。そして霊元天皇(1654~1732)の甥である公弁法親王(1669~1716:天台座主)は深大寺蕎麦を、公弁法親王の弟・道祐親王(1670~1691:聖護院門跡)は吉野山にて蕎麦切を食している。
  そんな具合で、当時の上層階級の人たちは、大根の絞り汁に蕎麦を和えたり、付けたりして食べていたのである。
  入野谷在来は、ご覧の通り見ても、そして食べても野趣味がして、存在感のある、美味しい蕎麦切だった。皆さんも揃って二人前ずつ頂いた。
   店は忙しかったが、合間を縫って店主がご挨拶に見えたが、なにしろお客さんがいっぱいだ。訊きたいことこともあったけれど、遠慮して失礼した。
   (ただ、「壱刻」さんの蕎麦については、1週間後のテレビ朝日『食彩の王国』で確認でき、勉強になった。)
 店を出た。空は真っ青の秋空。私は満足していた。
 《高遠蕎麦》を食べてみてその祖が京の寺方蕎麦であることが確信できたからである。これで高遠訪問の目的を果たすことができたから、原稿は書けると思った。

 「壱刻」さんの数軒隣に、信州大の井上先生が開館を目指されている「蕎麦博館」があった。
  それから高遠は城下町だから和菓子屋さんが多い。いま、高遠の和菓子屋さんでは、入野谷蕎麦を食材にしたお菓子を創作して、販売している。実は小池ともこさんは先週、その講習会で講師として菓子作りを指導されたばかりである。だから、どの店を訪ねても、店主は手を休めて「先生、わざわざお越しいただきまして・・・」とご挨拶される。 
  (小池さん、齋藤さんが、和菓子職人さんたちにケーキの作り方を指導している場面も、先述の『食彩の王国』で放映されていた。)

 小池さんのご用が終わってから、高遠城趾へ行った。藩校「進徳館」の写真をどうしても撮っておきたったからだ。藩校というのは江戸時代のいわば「県立大学」のような学校だ。江戸時代は幕藩体制だった。今様にいえば「合州国」みたいなところがある。各藩は徳川の権力に屈しても藩の経営は自立していた。だから藩のために優秀な人材を育成する必要があった。そのための藩校を各州は競って設立し、徳川300諸侯中、約250校が存在していたのである。
  お城は、三峰川と藤沢川が交あう所にある。戦国時代は川に守られた堅固な城だったのだろう。歴代城主は高遠氏、保科氏、鳥居氏、内藤氏だった。保科氏江戸蕎麦の更科伝説で知られている。内藤氏の敷地の内藤新宿で育てられた内藤唐辛子は江戸の七味に使われている。
  この城趾で、「お蕎麦の博士」の氏原名誉教授のお嬢様むつこさんと待ち合わせていた。これで蕎麦娘5名+お荷物1名(私)となった。
 
 6名は2台の車で信州大学の学生さんたちが実習の場としている蕎麦店「どんどん亭」を訪ねた。「どんどん」というのは、氏原教授のあだ名から付けられたという。むつこさんは小学生のころ「どんどん亭」でお手伝いをしていたとおっしゃっていた。
  玄関口に芝平唐辛子が干してあった。先刻、「壱刻」さんの卓にも置いてあったが、高遠町の山室川の上流の山峡の芝平(シビラ)村の在来唐辛子であるという。長さ15㎝はある大唐辛子は、観ているだけで辛味が伝わってくる。
  部屋に入ると、信州大学の松島憲一教授、一社)環屋の代表理事杉山祐樹氏に迎えられた。すべてともこさんが予約し、さらにむつこさんが電話で一言添えてくださったから、「大歓迎」の雰囲気である。環屋さんというのは、催事用のこの建物の運営会社らしい。松島教授は唐辛子が専門で、今は蕎麦も教授されているとのこと。松島先生から俣野敏子著の『そば学大全』を頂いた。俣野教授が師だったことから解説を書いたとおっしゃる。拝見すると「ソバは言うことを聞かない子供の様で可愛げがある」という題名の一文だった。題名からも先生の熱い蕎麦愛が伝わってくる。
   私たちは、亭でも入野谷在来の蕎麦膳を頂いた。学生さんたちがレシピを考え、蕎麦を打ち、茹でて盛付ける。イキイキと仕事をこなされる学生さんを見ていると〝希望〟のようなものが感じられ、好ましかった。

   外に出ると空気が少し冷たくなっていた。残念だけれど高遠と別れる時間が近づいている。私たちは、帰りは西流する三峰川と並んでいる361号線で伊那へ出て、そこから高速道を茅野へ向かうことにした。
  三峰川と361号線は伊那で大きな天竜川と153号線がぶつかっている。
  私にとっては懐かしい心の風景だった。実は、私は20歳代のころ、長野県を担当していたので、この天竜川に沿っている153号線を車で諏訪、松本、辰野、伊那、飯田を4年間走っていた。もちろん町並は大きく変化しているが、山並や水の景色や空気は半世紀以上前と同じだった。それにしても今思うと、高遠だけは訪ねていなかったのが不思議であるが、お蔭さまで長野県という盤上の空いている目に碁石を埋めるように高遠を訪ねることができたのは、じつに幸せなことだと思った。 (続く)

 (『そば文学紀行』作者 ほし☆ひかる)