第826話 みんな、この〈島〉に住んでいる

     

十勝行自信から-Ⅱ

 前の826話は行きと帰りだけの話になったので、時間を戻そう。
  今回の十勝行の目的は講演会であった。参加者は約50名。女性も、若い人の顔もあったがほとんどが70歳代の男性だった。
  ただ、私にとって北海道と、それに沖縄は、いつも講演がやりづらい所だという思いをもっている。その理由はよく分からない。
   蕎麦関係から見てみれば、北海道の蕎麦生産高は日本一、それも飛び抜けている。そして蕎麦打ちに対して熱い方がたくさんいらっしゃることも蕎麦界ではよく知られている。しかしながら、それでいて蕎麦文化の面はあまり濃くないという不思議なクニでもある。
 そのことと関係するかどうか分からないが、日本の特質について別の視点から考えることがある。
  それは、日本は〝梅雨〟の国すなわち「五季の国」であると、私が常々主張していることである。
  つまり日本列島を梅雨の軸で見てみると、1)北海道は梅雨のない四季のクニ、そして2)沖縄は梅雨もあるが、梅雨を帳消しにするくらいに台風が多くて夏暑い五季のクニといえる。したがって3)私の言っている本格的な「五季の国」とは、九州・四国・本州ということになる。このような三つの地域の気候と、景観と、そこに住む民の相関関係を詳しく知りたいところであるが、三者はかなり違いがあるのは当然だろうし、また私が感じる「北海道・沖縄問題」も梅雨に関係しているだろうということはいえそうだ。
   ともあれ、講演会は終わったが、自己採点は当然駄作であった。
 終了後は、広間で宴会が開かれた。
 その半ばごろだった。ある人が私の席へやって来た。
  「今の若い奴は、まったく人との〝交流〟に関心がないけど、これでいいんですかね。日本はどうなりますか」と問われた。一般的にはこのような〝気づき〟や〝問い〟があれば、解決は見えているというから、心配はないだろう。
   ただ私は、この方が言った「交流のなさ」というのは、今朝の羽田空港での出来事のようなことだろうと肯きながら、彼の話を聞いていた。
 空港での出来事というのは、一つがモノレールの車内アナウンスの問題だった。
  モノレールは第三、第一、第二ターミナルの順に停車する。第三は国際便であることは間違いない。私が乗るJALは第一、第二ターミナルはANAなどが離発陸するはず!である。しかしコロナ禍中はしばらく飛行機に乗らなかったから、まさか変わったりしていないだろうとやや不安はあった。思い出すと、以前はターミナルに到着する直前に、「まもなく第一ターミナル、JAL、・・・にお乗りの方はここで下車してください」みたいなことをアナウンスしていた。
  ところがところが、先ほどからのアナウンスは「どこで下車するかは飛行機会社のホームページでご確認ください」と繰り返すのみである。何人かの人が「おい、どこで下りたらいいのか、確認したかい」とか、「前はちゃんとアナウンスしてたよ」とか呟き出した。にわかに私も不安になったが、到着寸前には以前のようにアナウンスするだろうと信じていた。が、直前になっても「ホームページを確認してください」としか言わなかった。慌てた私は前の記憶を信じて第一ターミナルで飛び下りたが、正解だった。しかしながら、今のモノレールは何て不親切になったのだと少し不愉快だった。
 もう一つは切符の問題だった。
 主催者側から書類が送られてきて、そこに載っているQRコードをかざせば搭乗は可ということだった。私は通過できたが、他の先生がQRコードをかざしても反応しなかったらしい。そこで飛行機会社の人を捕まえて訊いてみたが、「購入した旅行社に訊いてほしい」と言って立ち去ったという。その先生は携帯で主催者の阿さんを呼び出して、危機一髪で事なきを得たが、先生は機械は調子悪いときがある。それなのにあんな対応はないだろうと怒っておられた。
 こうした歯痒さやイライラは、社会の合理化が進むにしたがって、度々目にしたり耳にしたりするようになった。なぜかというと、合理化・効率化というのは自社中心戦略だから、客は会社の合理化・効率化の対象に組み込まれることによって成立する。言葉を変えれば、「合理化・効率化は良いことという前提には、人間を幸せにしてくれるのだろうか」という考えが入る隙がない、とはベストラーになった白井聡の『武器としての「資本論」』の指摘だが、それに加えて私は「合理化・効率化は人間性とモラルを喪失させる」と思っている。その事例を示せば一冊の本ができるほどだろうが、それはそれとして、今夜は私の席には何名かの人が寄って来て、同じ話が続いた。伺うに、どうも人間のコンビニ化のため、非常につまらない人間になってしまったというのが皆さんの言いたいことであった。つまり決められた、あるいは与えられた範囲以外の事は、自分には関係ないという考え(実は「考え」といえるような立派な主義ではなく、現代の雰囲気に染められているせいなのであるが)から、交流など余計なこと、あるいは無駄なことはしなくなったのではないか。もっといえば、社会構造を合理化したつもりが、人間がロボットのような合理的・効率的な生き物になってしまったのではないかというわけだ。
 先刻、二次会へ移る前に司会の平さんがこうおっしゃっていた。
 「これから二次会場に行きます。でもコロナ禍ですから、言っておきますが、二次会で終わりです。三次会や朝までというのは止めてくださいヨ。」 
 何しろ北海道各地から3~4時間もかけて十勝へやって来た、熱い人たち50名だ。この人たちは合理化を拒み、人間としての交流を求めているのだ。この点が私の最初の課題である「北海道・沖縄問題」の答えだったのかもしれない。
 そう思った時、李琴峰の芥川賞受賞作『彼岸花が咲く島』の物語が浮かんだ。
 そこにはこんな台詞があった。
 「みんな、この〈島〉に住んでいる・・・(同じ人間ではないか)」。
 この李の多様性を認める思想は日本蕎麦の土壌に相応しい。
 そう思って、日ごろ書いたり講演したりしていることを「日本蕎麦」という目で整理してみた。そうすると、海外で講演するときの「江戸蕎麦が日本蕎麦」という姿勢は国内であっても同じでなければならない、と当たり前のことに気づいた。
 たとえば、実際あった話であるが、ある蕎麦愛好会が海外へ行って《Aという郷土そば》を披露した。その国の人は《A》が日本の蕎麦だと思い込んだ。その人が日本の東京にやって来て蕎麦屋に入って、自分が知っている《A》を注文した。当然都内の蕎麦屋にはないものだ。蕎麦屋の店主は、《A》は〇〇県の郷土そばであることを汗水流して説明して、やっと分かってもらったという。
 やはり、われわれ日本人が「江戸蕎麦が日本の蕎麦である」ことを一般常識として認識しておかなければならない。
 これが、十勝講演の駄作ぶりの追及から得たひとつの自信だった。                    

〔江戸ソバリエ協会 理事長 ほし☆ひかる〕
写真:ホテルからみた十勝川