第248話 以 和 為 貴

     

蛤の鱠 ☆ 料理・器 ほしひかる

食の思想家たち二十六、イワカムツカリ

江戸蕎麦切の初出とされる、常明寺は何処にあったのか?
その常明寺の蕎麦切はどのようなものであったか?

これが、私の蕎麦人生、江戸ソバリエ人生の、最高の課題である。

☆新島繁先生と伊藤汎先生との出会
在職のころ、会社の人たちと蕎麦を食べ歩いては、たまに蘊蓄本などを読んでいた。そのうちに縁があって、笠川さん(江戸ソバリエ神奈川の会)が加わるようになり、仲間内で蕎麦打ちを始めた。これが「江戸ソバリエ」の舌学・耳学・手学の原型となった。
蘊蓄本というのは新島繁先生の江戸の蕎麦シリーズなどで、目に付いたものは何でも目を通していた。

あるとき、伊藤汎先生の『つるつる物語』を読んだ。驚いた。今までにはない、江戸以前の蕎麦のことが書いてからである。世間では江戸以前の蕎麦について気にする人はあまりいなかったが、これで一気に、蕎麦、麺、石臼の歴史がつながった感じがした。そこで初めて、江戸蕎麦に対して自信をもち、江戸ソバリエ認定事業を構想するようになった。

そうしているうちに、「伊藤先生の室町時代の寺方蕎麦」と「新島先生の江戸時代の町方蕎麦」の接点は? という課題をずっと抱くようになった。
故・藤村和夫先生(江戸ソバリエ講師)は「それがほしさんの立つ位置になるヨ」、林幸子先生(江戸ソパリエ・ルシック講師)は「ほしさんの発想は隙間産業的視点だったのネ」と仰った。

☆浅田さん、板垣さん、吉川さんとの出会い
一方では、「深大寺蕎麦」との付合も始めていた。きっかけは、勤めていた会社の後輩に浅田Fさんという女性がいらっしゃった。彼女は深大寺「門前」の浅田さんの姪御さんだったので、それが縁で浮岳山深大寺にも顔を出すようになっていた。
深大寺の蕎麦といえば、日新舎友蕎子著『蕎麦全書』や長谷川雪旦画『江戸名所図会』にも登場するほどの歴史ある蕎麦である。当然、「深大寺蕎麦とはいったいどんなものだったか?」 を考えるようになったが、それを解決するには、長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会』のうちの「深大寺蕎麦」を再現するのが一番いいのではないかとの思いが段々に大きくなっていった。
ヒントは、幸田露伴の『観画談』だったが、私は「この小説のように絵の世界へ何とか入って行けないか」と思うようになった。

そんなところのある日のこと、畑貞則さん(江戸ソバリエ・ルシック)と板垣一寿さん(蕎麦屋一寿店主)がやって来て、「江戸初期の蕎麦を再現したい」とおっしゃる。理由はお二人の出身地新発田市が赤穂義士の一人堀部安兵衛の故郷であるため、討入蕎麦を考えたいというのであった。私は「討入蕎麦については何とも言えないが、元禄時代の蕎麦については『本朝食鑑』にあるから、何とか情報は提供できる」と返事した。
すると板垣さんは、私の『本朝食鑑』の解説通りに麺とつゆと薬味を再現された。

私はこれで、「あゝ『深大寺蕎麦』を再現することができる」と感激した。
さっそく、『江戸名所図会―深大寺蕎麦』の絵を見せながら、江戸料理の専門家福田浩先生(江戸ソバリエ・ルシック講師江戸料理研究家)や永山久夫先生(食文化研究家)や、江戸時代の食器に詳しい森由美先生(江戸ソバリエ講師、陶磁器研究家)、浅田さん(「門前店主)、林田さん(深大寺執事)らにもご相談した。
だいたい、イメージをかためたところで、今度は江戸時代の食器・道具に詳しい吉川真理さん(江戸ソバリエ)に企画を話したところも道具も食器も揃えることができるという。
イメージにしたがった道具さえ手に入れば、実現できる。私は小躍りしたいくらいだった。

☆イワカムツカリとの出会い
ところが、再度『絵』を見ていると、登場人物たちは蕎麦猪口を手にしていない。お椀で蕎麦を食べているのである。これはどうしたことか!
すぐに《ぶっかけ》を想起したが、当時《ぶっかけ》は下品な食べ方とされていたから、寺の食事形態としてはそぐわない。
そこで私は、蕎麦史における自分の課題を頭の中にもう一度設定してみた。
伊藤先生の室町時代の寺方蕎麦」と「新島先生の江戸時代の町方蕎麦」の接点は?
簡単にいえば、「江戸初期における蕎麦?」ということである。江戸初期の資料といえば、『慈性日記』と『本朝食鑑』がある。
そこで『本朝食鑑』の原著をあらためて読み直してみると、何と「蕎麦を和えて食べる」と記述してあるではないか。訳本には「付けて食べる」とあるが、原著は「和えて食べる」になっている。
「しまった」と思うと同時に目から鱗である。

和える」ということが、日本の料理の最初であることを思い出したのだ。
思い起こせば、『記紀』には、10月に景行天皇が上総国へ行ったとき、イワカムツカリという男が白蛤を膾にして奉ったと記録してある。これがわが国の史料で最初に出てくる料理である。膾とは、切って酢などで和えたもの。器は、須恵器にでも盛ったのだろうか。景行天皇は7世紀前半に実在した国王とされているから、そのころの代表的な料理だろう。というよりか、切って、和えるというのが、日本料理の基本だともいえる。福田浩先生や昭和天皇の料理番谷部金次郎先生にお尋ねしたところ、和え物は日本料理の原点と考えていいだろうということだった。

それじゃというわけで、私も蛤を買ってきて、とりあえず塩水で和えながら、こんな風に想ってみた。
江戸初期、京から江戸に伝わったばかりの蕎麦切は、まだ寺の料理のひとつであり、だいたい次のようなものであったろう。
・『本朝食鑑』にある製法で、蕎麦切、汁、薬味を作り、
・大蒸籠に束にして盛り、
・料理の後に、後段として供し、
・小椀に蕎麦切を入れて汁と和え、好みの薬味を入れて頂く。
やがて、寺の料理の一部だった蕎麦切は、切り離されて、蕎麦切だけを商う蕎麦屋が生まれた。それが蕎麦屋の蕎麦、または町方蕎麦である。

それにしても、「和える」という言葉は和食によく合っている。
以和為貴」(和えるをもって貴しとする)とはこのことだろう。

余談1:「なます」は古代からそう言っていた大和言葉であるが、漢字が入ってきたとき「膾」をそれに当てた。おそらく『書紀』が書かれた天武時代のことであろう。
しかし膾の字は、「月」偏であることからも分かるように、元々は細く切った生の肉のことだ。魚の国日本ではどこか違和感がある。
ということから「鱠」という字を作った。平安中期の辞書『和名類聚抄』に「鱠」とあるから、その時代からのことだろう。

余談2:握り鮨はいま付けて食べるが、最初は「ヅケ」である。これも広い意味の和え物と考えることはできないだろうか。

参考:『蕎麦全書』、『江戸名所図会』、幸田露伴『観画談』(岩波文庫)、『本朝食鑑』(東洋文庫)、『古事記』(岩波文庫)、『日本書紀』(岩波文庫)、

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〔江戸ソバリエ認定委員 ☆ ほしひかる〕