第876話 白磁光明物語 蕎麦猪口編、三
三、日本橋の伊万里屋五郎兵衛のこと
有田皿山の人々の生き方を山本一力は小説『紅けむり』の中でこう述べている。
「皿山は焼物の町である。窯焼から絵付けまで、その分野の技量に秀でた職人が数多く暮らしていた。住民の数はさほど多いわけではない。しかし職人はだれもが、余人をもって替えがたい技量を有していた。ひとこそが財なり。皿山の住人はこの言葉を胸に抱き、老若男女を問わず、だれもが強くて大きな矜持を持って生きていた。」
こうした職人たちの活躍の場を創り上げたのは、代官中野・山本父子であり、その根本となる思いは多久領主、兼鍋島藩家老の多久安順のものだったと私は見ている。
なぜ私が、多久安順に注視したかと言うと、❶李参平は初め多久領で陶器を焼いていた。❷多久安順は龍造寺姓を捨て改姓したこと。❸それに次の史実からうかがえる安順の漢振り(おとこぶり)が面白い。
1634年、藩に鍋島騒動というのが起きた。龍造寺氏の嫡流を名乗る者が突然登場し、幕府に訴え出たのである。われこそは龍造寺の正統な血筋の者、佐賀藩はわれのもの、と。それを多久安順は苦々しく思った。幕府にとっては龍造寺が正統だろうが、鍋島がどうだろうが、どうでもよいこと。佐賀藩が揉めれば改易にするだけ。それも分らん大馬鹿者、貴様は佐賀を潰すのかと、江戸城に乗り込み「庶子の身で嫡流とは笑止。龍造寺氏に嫡流があるとすれば隆信の甥である己自身が最も相応しい。だが、鍋島家が正当なことはすでに家康公がお認めのこと」と主張し、一連の騒動を封じた。
おそらく安順は、波多氏改易後に入って来た新領主徳川派の寺沢氏による厳しい波多残党狩りやら、「岸岳崩れ」とまでいわれたほどに露頭に迷う領民を見て、鍋島の下で佐賀を発展させていくことこそが、伯父隆信への供養と心得ていたにちがいない。その発展策として波多氏に倣って陶磁器を佐賀の殖産とする構想を描いたのではないだろうか。実際、安順の目は曇っていなかった。1637年、寺沢の飛地天草において過酷な年貢に対する一揆(島原・天草ノ乱)が爆発したのである。
さて、多久安順没後10年目の1651年4月19日、大橋康二の調べでは「三代将軍家光が今利(伊万里)新陶の茶碗皿御覧ぜらる」という記録(『徳川実記』)があるという。
これは家光がただ伊万里焼を観ているという場面ではない。
基本的に、物を差し上げるという行為は人間関係の潤滑油となる。とくに江戸時代は徳川将軍(支配する者)が諸国大名(支配される者)に主従関係を自覚させる行為として献上物は大事な役割をもっていた。
ただその献上物は、各藩が勝手に決めるのではなく、すべて幕府の承認を得て行わなければならなかった。
よって、先の場面は鍋島藩からの献上物を将軍に評価し、認可してほしいということらしい。今風にいえば、将軍が審査委員長というわけである。しかもこの4月19日というのは家光死去の前日なのである。つまり今際の際にも関わらず評価委員会もどきの場が設けられたことは、主も従も献上制度に必死、あるいは徳川体制を守るためには将軍ですら一つの駒だったということがいえる。
このように「献上」は制度化されており、内訳として「年次献上」「時献上」、「参府献上」、「臨時の献上」などがあった。
「例年献上」とはお歳暮のようなもの。「時献上」は季節のご挨拶、その季節とは、正月の盃台、若菜(初子の日→七日の行事)、上巳(3/3)、端午(5/5)、暑中(夏の土用の18日間)、七夕(7/7)、八朔(8/1)、重陽(9/9)、初雪、歳暮のこと。「参府献上」は参勤交代の手土産。「臨時の献上」は冠婚葬祭である。ともあれ、鍋島藩からの献上物は、「例年献上」ということになった。
他に、1789年、諏訪高島藩の《寒瀑蕎麦 かんざらしそば》が、「時(暑中)献上物」となったことは、ソバリエならご承知だろう。
こうして献上行為は江戸時代を通して連綿と継続され、それが現在の各地の郷土名物・名産物につながっていったことを思えば、安順の思惑は400年先まで見通していたといえるのである。
ともあれ、有田の磁器は将軍のお墨付きを得たのである。。現代ではグランプリで金賞を得たようなもの。道は拓けてきた。
ということで、伊万里焼は1624~44年ごろ、先ずは大坂商人の塩屋与一左衛門、えぐや次郎らが関西方面で商っていたが、1660年代には伊万里焼が江戸に出回った。
それは伊万里市陶器商家資料館の「伊万里津関係年表」にもこう記してあるところからも明らかである。
「1668年、このころ江戸から伊万里屋五郎兵衛が有田に伊万里焼を買付に来て、江戸方面へ伊万里焼が広まり始めた。」
しかも表に見るように出荷量は圧倒的に、関東が多い。
そこで伊万里焼の流通経路を見てみる必要があるが、簡単に述べれば次のような経路である。
有田磁器生産者 ⇒ 伊万里の陶磁器問屋 ⇒ 廻漕問屋 ⇒ 江戸の陶磁器問屋
こうした産業としての焼物の流通状況は、小説『紅けむり』を読むと見えてくる。
山本は、江戸の武士や商人、職人など様々な階層の人々の人生の断面を描く時代小説を得意とし、その時代考証は信憑性があって勉強になる。また登場人物の善人・悪人ぶりが明確で、かつ爽やかな男が主人公になるから読んでいて気分がよい。今回は公儀隠密と善男善女が一緒になって悪党と闘うという小説。
物語は1796年の元旦、初詣で賑わう有田皿山の陶山神社から始まる。
「来年春までに手代三名を同道のうえ、仕入商談に伺いたく存じます。 江戸日本橋駿河町 伊万里屋五郎兵衛」
伊万里屋からの飛脚便を受け取ったのは伊万里津の陶器問屋東島伊兵衛。長崎の中国人から伝授された赤絵の技法を初代酒井田柿右衛門に伝えた東島徳左衛門の血筋の者だ。大きな商談とみた伊兵衛は有田の人々に手紙のことを伝えた。
その一方で、有田で塩硝が密造され、それが江戸に運び込まれようとしているという噂が立つ。公儀は隠密を放った。塩硝密造が事実であるなら鍋島藩はお取潰しになる。肥前有田と江戸を舞台に、幕府禁制の火薬、塩硝を密造する一味と公儀隠密との戦いが始まる、という内容だ。
ただし、伊万里市陶器商家資料館によれば、伊万里屋五郎兵衛の活躍は1668年、対して小説の舞台は1796年であるから、128年後のことであるから伊万里屋の数代後のこととして読まなければならない。それにしても山本一力氏は、初代伊万里屋五郎兵衛が日本橋駿河町にて開業した年を具体的に1616年と書いておられるから彼の調査力はすごいものだ。ちなみに日本橋駿河町というのは現在の日本橋三越あたりであるが、小説では、駿河町を町として発展させてたのは初代伊万里屋五郎兵衛だという台詞が出てくるところが佐賀人にとっては面白い。
ところで当時、陶器を積んで伊万里津を出航した船は海路何日で江戸に着くのだろうか?
『紅けむり』では、隠密が仕立てた船ゆえに上陸なしの急行便の日程という設定ではあるが、弁財船500石積みで7人の船乗りの場合、2月3日伊万里津出航、2月13日品川沖着という約10日の日程だったらしい。
そうやって運んできた伊万里焼の価値は、たとえば笠間焼小皿20文のところ、伊万里焼小皿300文だった。
伊万里市陶器商家資料館の「伊万里津関係年表」にはたった一行の表記だが、やはり一大消費地江戸に伊万里焼問屋伊万里屋五郎兵衛が進出していたことは大きい。
多久安順も中野清明も、草場の蔭で快なりと喜んでいるだろう。
その中野の孫山本常朝が『葉隠』の口述者であることは前に述べたが、私は聞きかじり程度の『葉隠』しか知らない。
そこで『葉隠』を精読しているR氏にあらためて尋ねてみると、山本常朝の葉隠武士道は新渡戸稲造の道徳的武士道とは立ち位置がちがうという。それを聞いて私は目から鱗だった。
考えてみれば、文明開化の明治になって新渡戸は道徳論として武士道をまとめあげた。だが、それ以前の江戸時代に「武士道」という言葉はあったかもしれないが、武士道論というのは「葉隠」以外にはなかったはずである。それは当時の日本が合州国制であったから、日本人論を述べる機会も必要もなかったためである。国といえば当時は自国(肥前国)の他にない。よって武士道とは死ぬことと見つけたりの精神は、クニ(州)のために生きろという意味を帯びてくる。違った面からいえば江戸時代の各クニ(州)に在った藩校は自州のために尽くす人材育成の場であったことと同様であり、そして各州は自国(州)の殖産・名産育成に励んだのである。
(続く)
《参考》
山本一力『紅けむり』(双葉文庫)
荒川正明「柿右衛門と鍋島-肥前陶磁器の精華-」
宮木慧子「有田焼の包装」
奈良本辰也『葉隠』
新渡戸稲造『武士道』
江戸ソバリエ協会 理事長
ほし☆ひかる