第256話 教育の方法
=江戸ソバリエ認定講座運営員の夢=
嬉しいことに、このブログの私の駄文に、敏感に反応してくださる方々がいらっしゃる。
たとえば、
◎ネーミングがいい。
「江戸ソバリエ」や、認定講座の「手学」「舌学」「耳学」「脳学」など。
◎講座を企画する際の方針がいい。
総合学習、講師は専門家など。
◎江戸ソバリエの姿勢がいい。
地域主義、総合主義、継続主義など。
といった点には特にご賛同いただいた。
なかには「君は、元は教師か?」と言われたこともある。この場合は褒められたのだと勝手に思っているが、残念ながら私は教育に関係したことはない。前職は営業・情報・企画・広報の畑で仕事をしてきたしがないサラリーマンだ。
ただ、若いころ上司に「勉強してこい」といわれ、関係するセミナーに顔を出したことがあった。
その中で忘れられないことが二つあるが、その影響は江戸ソバリエ認定講座事業に少なからずあるだろうと思っている。
☆企画には、「主婦の料理」的なものと、「プロの料理」的なものがある!
どういうことかというと、身の回りにある食材から献立を考えるのが主婦、お客様を想定してどういう献立がいいかを考えてから食材を集めるのがプロ。ビジネスならばプロの料理人的であるべきだ、というわけだ。
ところが、身辺を見回すと、あんがいわれわれは「あいつを知っているから、あいつに講義してもおう」とか、「彼は、たしかカメラが得意なはずだから、パンフレットの写真を頼もう」とかいうことで決めてしまうことが多い。
ところが私は、かつて医療業界にいたから、このプロ・アマという言葉に敏感だ。
よく世間では、名医とか、藪医者とかいうことを知りたがる向きがあるが、そんなことより専門か、非専門かを知ることが大事だと思う。
たとえば、~ 断っておくが、一般論の話として理解してほしいが ~ 眼科医は眼科が専門だから、専門外の疾患については詳しくない。
そんな理屈で、仮に消化器医が専門外の循環器の薬剤を使用したときには副作用などが出る確率は高くなる。
というわけで、専門家か、そうでないかは技術と知識に格差が生じる。
くわえて、プロはお客様のために仕事をするが、アマは自分が楽しければそれでいい。
どちらが正しいと言う前に、この相違を認識しておくべきだろう。
講義についても、プロは教育ということを意識しているが、アマはご自分が楽しむ傾向にある。
だから、私はできるかぎり講師は専門家にお願いしている。
☆編集者とっては、雑誌まるごとがひとつの作品だ!
どういうことかというと、映画監督にとって完成した映画が自分の作品であることは当たり前だが、同じように編集者、プロデューサーも、雑誌、企画、それ丸ごとがひとつの作品だというわけだ。
そういう視点に立って講座を企画するとき、主催者は編集者・監督のような目で講座全体を見るべきであろう。
そうすれば、講座全体が一本の串で貫かれていなければならないことを知るだろうし、また講座の一つひとつに意味がなければならないことにも気が付くだろう。
細かいことをいえば、講座中によく配られる資料の大きさを同じにしたり、あるいは文字や数字も統一したら、受講生は読みやすくなる。
これが講座運営のコツなのであるが、これが案外簡単ではない。たとえば「ソバ」と書かれている原稿を「蕎麦」の字に変えたりするだけでも、多くの人たちの合意を得るのは大変である。
また、一般的には、どうしても面白い講師に人気が出たりするが、面白いということは理解してもらうための方法であって、目的ではない。講座は人気者の楽しい漫談ではないし、だからといって専門的な学会発表でもない。
目的はあくまで教育であり、かつ教育の目的は、全受講生が栄養を摂取し、受講後には受講生一人ひとりが大きく成長してもらうことにある。
だから、講義終了後の先生への拍手は、受講生の栄養摂取への感謝なのである。
こうした方針を実現するための組織としては、「講師の先生はエライ、それを補佐するのが事務局」だけではなく、先生・スタッフが一体となって、受講生に臨める体制がいい。そのために、「事務局」とか「事務局長」とかは設けずに、「○○実行委員会」とするのも方法であると思う。
ともあれ、講座運営は、上述したような専門志向と総合志向だけではあるまい。まだまだノウハウがあるだろう。
よって、さらに研究を重ね、ますます江戸ソバリエの皆さまが輝き、ご活躍いただけるような講座運営を行いたいものだ。
〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕