第916話 「来し方 行く末」の発展論

      2024/10/23  

 9月のある日、所用のため大宮を訪れて昼過ぎには用が済んだ。
 このとき、いつもお世話になっている横田節子さま(江戸ソバリエ・ルシック 講師、全麺協 副理事長)から、現在の鉄道都市大宮の基盤を築いた明治の人の銅像があると聞いていたので、訪ねてみようと思った。
 銅像は大宮駅西口近くの鐘塚公園にあるはずだった。
 行ってみると、たしかに銅像は在った。白井助七(1841~96)、この人物こそがそうだった。
 大宮の名は、全国で280社以上も在る武蔵国一ノ宮の、氷川神社からきているが、江戸時代には中山道六十九次の、日本橋から四番目の宿として賑わっていた。
 ところが、明治維新になって県庁が浦和に置かれると、大宮の人口は徐々に減ってきて、町の繁栄が失われる懸念さえ出てきた。そのため、明治16年に上野・熊谷間(上野→王子→浦和→上尾→鴻巣→熊谷)の鉄道が開通したときも、また翌年に高崎まで線が延びたときも、大宮は駅から外された。
 それから、白井助七ら大宮の人たちは、大宮のジリ貧を止めるための猛烈な誘致活動を開始した。そして彼らは何と停車場用地の無償提供まで申し出た。その効あって、新たに東北本線建設が計画されたとき、分岐駅として大宮が決定し、ついに明治18年(1885)大宮停車場が開業した。それまでは通過していくだけの列車が大宮に停車することになり、ここから大宮の町の発展が始まった。現在はJR埼京線・新幹線は無論のこと、埼玉新都市交通のニューシャトルさえ走るまでになったことは周知のことと思う。

 さて、話を鐘塚公園に戻そう。実は当日、公園では食のイベントが開催されていて、隙間なくテントが張られていた。もちろん人もいっぱいであった。しかし残念ながら、白井助七さんはテントと資材に囲まれて姿が埋没し、近づくこともできなかった。

 悲しかった。ここはむしろ白井助七像を活かして当地のために善きことをなした産土神のような先人がおられたことを紹介するようなイベントにした方が、地に着いた食の祭典になるのではないだろうか。それが、いわば「来し方を思い、 行く末を考える」ブレない発展論になると思うが、いかがだろう。

追記白井助七翁は、実は横田節子さまの曾祖父に当たる方とのこと
写真:埼玉新都市交通・ニューシャトル

                                以上

ほし☆ひかる
エッセイスト