第267話 豊島蕎麦談義

     

お国そば物語 23

副題に「たべる、しゃべる、つくる」と冠した豊島区の蕎麦講座が終了した。
サブタイトル通り、お蕎麦屋の「菊谷」さんで食べて、私が蘊蓄を話して、蕎麦屋「小倉庵」の安藤さんが蕎麦打ちを教えるという連続講座だった。豊島区も粋な講座を考えつかれるものだと思った。

その中で私が話す時間は、3日間で4時間半。ちょっと長時間だったが、マア何とかこなすことができてホッとしている。こうした連続講座は、過日の「日本橋蕎麦談義」からだが、少しノウハウも身に付いてきたようだ。それに、実のところ豊島区というのは「江戸ソバリエ」の発祥地といえなくもない所なので、私の気持のなかに本気度があったのは否めない。

☆江戸蕎麦
その発祥の地という話はこういうことだ。
十数年前、江戸ソバリエ認定事業のようなものを考えていた当時は、まだ「江戸蕎麦」という言葉は世間になかった。使われていた言葉は、「東京の蕎麦、藪蕎麦、更科蕎麦、砂場の蕎麦、せいろ蕎麦、ざる蕎麦、盛り蕎麦」ぐらいだった。
私は、「江戸・東京の蕎麦を一言で表現する言葉はないものか」と探していたが、そんなとき私の家のすぐ近くの「生粉打ち亭」(豊島区東池袋)の主人と出会った。店主は池田好美さんといって、日本橋生まれの人だった。残念ながら、今はもう亡くなられているが、近くだったから、時々通った。
そのお店の蕎麦が美味しかったのはいうまでもないが、私が注目したのはお品書だった。それには《津軽そば》と《江戸そば》が書いてあった。そのうちの《津軽そば》は郷土そばとして知られているが、もう一つの《江戸そば》というのが気になった。
なので、名付の理由を訊いてみた。すると、「江戸の蕎麦には、生蕎麦(生粉打ち)と二八蕎麦があるが、そのうちの生粉打ちを《江戸そば》と呼ぶようにした」と言う。
私は「なるほど。でも今まで《江戸そば》というのは聞いたことがない」と言うと、「おれもいろいろ調べてみたけど、ないね。だから気にいっている」と自慢げに笑っていた。
ついでながら、大豆汁を加えた「《津軽そば》は今は郷土そばだけど、元は津軽藩が参勤交代を終えて津軽に戻るとき、江戸の蕎麦を持ち帰ったのが初めらしいから、元々は江戸の蕎麦じゃないですか」と言うと、目を丸くして「お客さん、詳しいね」と、私が座っていた卓に寄ってきて、話が続いたものだった。
それはそれとして、その日から私の頭の中では《江戸そば》という言葉がグルグル回り始めた。その結果、生粉打ちも二八蕎麦もあわせた江戸の蕎麦を《江戸蕎麦》と呼べないかと考えるようになった。もちろん池田さんにも「江戸蕎麦」という言葉を使うことを話したことはいうまでもない。とにかく、こうした経緯から「江戸蕎麦」→「江戸ソバリエ」が誕生したというわけだ。
ただ、そのころに両国の「ほそ川」さんが「江戸蕎麦」と称していることを後で知った。だから、「誰が一番先か?」というようなことはなかなか難しい。たぶん、「江戸・東京の蕎麦を一言で表現する言葉が必要とされる」ような時代のうねりが高まっていたのだろう。
数年後、「かんだやぶ」の堀田先生が何かの雑誌で「近頃は江戸の蕎麦を総称して『江戸蕎麦』というようになった」とおっしゃっていた。私は老舗の旦那が認めてくださっと喜んだものだった。
しかし、こんな話は江戸ソバリエさんなら、少しは通じるが豊島区講座の受講生には遠い話かもしれない。

☆雑司ヶ谷藪
それより、豊島区ならではの話としては、「雑司ヶ谷藪」、つまり藪発祥の地の方に意味があるだろう。
雑司ヶ谷に今も御嶽山清龍院というお寺がある。1800年ごろは、寺の隣まで竹藪だったらしい。その一角に通称「藪」といわれる蕎麦屋があった。店主は戸張惣次(?~1825)といった。本職は金工師、銘は「富久」といって、名流とされている京橋の後藤宗家の、13代延乗光孝(1782~84)の高弟であった。
そんなところから、雑司ヶ谷藪には富久と交流のある文人墨客の客が絶えなかったというが、それでなくとも蕎麦にはこうした知識人を惹きつけるところがあるようた。
近くの威光山法明寺には、酒井抱一(1761~1829)が得意としていた朝顔の絵を添えた富久の句が残っている。

蕣や くりから龍の  やさすがた  富久

くりから龍の蕎麦切を蕣の蔓に置き換えたところに、富久と抱一の交流がうかがえる。
それならば、蕎麦切を朝顔の季節に啜るのも、豊島らしい遊蕎ではないだろうか。

参考:ほしひかる「蕎麦夜噺 第23夜 恋川春町、雑司ヶ谷の藪蕎麦を食す」(『日本そば新聞』平成20年9月号・10月号)

【挿絵☆ほし】

〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕