第69話 練習問題「草上の昼食」
夢の島で、草上の蕎麦を食べながら、次の練習問題を考えてみた。
《練習問題:マネの「水浴」が「草上の昼食」という題に変わったのはなぜか?》
エドゥワール・マネ(1832-83)の「草上の昼食」(1863年)に描かれているのは男二人女二人である。女性の一人は丸裸、その隣と真向かいに男が二人、奥の方では女が水浴をしている。これを描いたマネを入れた五人で草上の昼食をとったのだろうか。草上には籠が倒れて果物が散乱し、飲み干した大きな酒瓶が転がっている。ガラス瓶には白ワインでも入っていたのだろうか。
裸の女はヴィクトリーヌ・ルイーズ・ムーラン( 1844-1885 )という21歳のパリジェンヌだ。彼女はなぜじっと挑むようにこちらを凝視しているのだろうか? ヴィクトリーヌとマネが初めて出会ったのはパリの大法院前の路上だという。このときヴィクトリーヌはまだ18歳だった。彼女の不思議な風貌と意思の強い雰囲気に心を打たれマネは、すぐモデルになってほしいと頼み込み、昨年(1862年)は「ヴィクトリーヌ・ムーラン」を描き、今年は(1863年)、「草上の昼食」と「オランピア」を描いた。
草上の男二人は、洒落た服装をしている。真ン中の若者はオランダ人の彫刻家フェルディナン・レーンホフ、マネの妻シュザンヌ・レーンホフ( 1830-1906 )の兄である。そして横向きの人物はエドゥワール・マネの弟ウジェーヌ・マネである。向こうで水浴をしている女は誰だろう? マネの妻だろうか! それとも女流画家で、弟の妻のベルト・モリゾだろうか! マネは、ヴィクトリーヌや、妻や、弟の妻の三人の女性をモデルにして度々絵を描いている。それらから兄弟夫婦、かなり仲のいい一族だったことがうかがえる。
ところで、マネ以後もたくさんの画家が「草上の昼食」を描いている。たとえば、ウジェーヌ・ブータンは、それを描くために、エドワール・マネの「草上の昼食」でモデルになった、エドゥワールの弟ウジェーヌ・マネに来てもらい、わざわざ同じポーズを取ってもらった。しかも、このウジェーヌ・ブータンはクロード・モネと出会うと、モネに屋外で絵を描くことを教えた。そのためか、モネもそれを描いた。戸外の木漏れ日のなかで戸外での昼食を楽しむ紳士淑女たちと、シートの上にはワイン、肉、皿が描かれている。さらには、マネの大ファンであったジェームス・ティソも、ポール・セザンヌ も、マネと対立していたステュアートも、そして弟ウジェーヌ・マネの妻で、女流画家ベルト・モリゾも「草上の昼食」を描いた。
それにしても、なぜヴィクトリーヌ・ルイーズ・ムーランは裸なのか?
そして、なぜこんなに多くの画家がこのテーマで画を描くだろうか?
マネが「食事も絵も、光あふれる草の上で」というテーマを切り拓いたため、多くの画家たちが賛同して「草上の昼食」を描いたのだろうか!
いや、マネは当初、その絵に「水浴」という題名をつけていたという。それがいつのまにか「草上の昼食」に変わったのである。
たしかに「水浴」であるとしたら、ヴィクトリーヌ・ルイーズ・ムーランが裸であることは自然である。しかしである。観る者は奥の方でささやかに水浴をしている女より、丸裸のまま坐っているヴィクトリーヌに目を奪われる。
だが、彼女の物怖しない眼差で見つめ返されると思わず目を逸らし、草上に目を移してしまう。と、そこには倒れた籠から果実やパンが脱ぎ捨てられた衣服の上に飛び出し、空になった四角いガラス瓶が倒れている。
観る者は、「水浴」にも〝陽の下の解放感〟を覚えるが、「草上の昼食」にも負けずとそれがあることに気づく。いや、むしろ「草上の昼食」の方により新鮮さを感じてしまったのである。
以来人々は、マネの「草上の昼食」は伝説となり、多くの画家たちの題材となっていった、ということではないだろうか!
参考:「草上の昼食」:エドゥアール・マネ1863年画、ウジェーヌ・ブータン1866年画、クロード・モネ画1866年、ジェームス・ティソ画1868年、ポール・セザンヌ画 1871年、ステュアート画1895年、ベルト・モリゾ画。太田愛人『草上の午餐』(築地書舘)、羽仁進『ぼくのワイン・ストーリー』(中公文庫)
〔蕎麦エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員 ☆ ほしひかる〕