第975話 武蔵野うどん 回り-2
☆「武蔵野」って何処?
そもそもが「武蔵野」という「野」の景色になったのは奈良時代以降のことで、それまでは照葉樹林の「森」だったようです。現在でいえば先ほどの黒目川沿いの雑木林よりも、奥多摩の森林よりも、もっと鬱蒼としていたのしょう。それが奈良時代なりますと、朝鮮半島の高麗人・新羅人が武蔵の台地に入って来て、開墾します。彼等は焼畑農業の技術や鉄器農具を自製していましたので、森林を伐採または焼き払い、「武蔵野」の景色に変えたのです。
ですから、武蔵野と武蔵野台地は同じことです。
その台地とは、多摩川・荒川・入間川に囲まれた地域を指します。
史料では、東京多摩郡から埼玉入間郡・高麗郡にかけた地域が武蔵野とあります。ただ、埼玉入間郡・高麗郡は分かりますが、東京の多摩は変遷がややこしく、現代の行政区分では、調布市、三鷹市、武蔵野市、小平市、西東京市、東久留米市、清瀬市あたりが主たる地域でしょう。
ところで、昔の國名の「武蔵國=ムサシ」の「サシ」や他に「サス」という語は、古代朝鮮語で焼畑の意味に由来するといわれています。そうしますと、奈良時代の渡来人の影響かといえば、そうでもありません。古墳時代には当國は無邪志國と胸刺國とよばれていましたから、むしろ当時から渡来人による焼畑農業が行われ、彼らが得意な蕎麦 → 稗 → 小豆 → 里芋の輪作を行っていたと思われます。
ここで、ソバリエにとって関心度の高い武蔵野の蕎麦栽培が出てきます。
では、うどん用の小麦の栽培はどうかといいますと、日本における小麦は奈良時代には各地で栽培されていましたが、全国的に広まったのは室町・江戸時代だといわれています。武蔵野でもそうだったのでしょうが、とくに柳窪天神の立札にありましたように1851年から栽培された柳久保小麦が人気だったそうですから、その理由にうどん用ということがあったのではないかと思われます。

☆手打ちうどん
では、武蔵野における《うどん》の実態はどうでしょう。
この点につきまして、まずは武蔵野の《うどん》の由来は調べても分かりません。ですので歴史的にはそう古くはなさそうです。もしかしたら柳久保小麦が人気になった少し前あたりかもしれません。
そこで、郷土の食慣習を探るのに一番適している農山漁村文化協会の『日本食生活全集』ー『聞き書 東京の食事』(1988年:昭和63年刊)『聞き書 埼玉の食事』(1992年:平成4年刊)を開いてみました。
編集者が取材した相手は大正生まれの方ですから、地域のうどん食としては明治・大正・昭和戦前の慣習と思ってよいでしょう。
・先ず、《武蔵野うどん》という名前は一切出てきません。代わって《手打ちうどん》という言い方が多いです。あと《糧うどん》とか《煮込うどん》とかのいい方が出てきます。また少し幅広の麺ですが《ひもかわ》《にぼうと》という表現もされています。
・次に、盛り方に「ぼっち」(埼玉大里・児玉地方)という言い方がされています。束ねるようにして盛るのですが、昔はこれが全国の麺の一般的な盛り方だったのかもしれません。というのは私は、日本橋や川崎の古老からそれを聞いたことがあります。また長野戸隠では「ぼっち盛り」、新潟十日町は言葉が変わって「手振り」と言っているのも、麺を束ねて盛るのが《江戸蕎麦》以前の麺の正統な盛り方だったと思います。ただ、だんだんそういう言い方をしなくなったので、今は死語となっていますが、長野戸隠や新潟十日町では現在でも使われていて、今は〝独自〟の言い方とまでいわれています。
・次に、『全集』に《うどん》が掲載されている件数です。
『東京都』計7件
武蔵野台地地区(台地・東久留米・世田谷・多摩川下流など) / 3件
多摩川上流地区 / 2件
山の手地区(麹町・四谷・赤坂・本郷など) / 1件
水郷葛飾地区(江戸川・中川など) / 1件
『埼玉県』計19件
大里・児玉地区(岡部町など) / 8件
北足立台地地区(上尾・浦和など) /4件
東部低地地区(加須など) /4件
入間台地地区(入間市など) /2件
川越地区(川越市など) /1件
このように、『聞き書』から見る限り、武蔵野台地圏外が多く、《武蔵野うどん》ではなく《武蔵うどん》と言うべき状況です。
☆郷土食としての《うどん》
でも、私はそれでよいと思います。無理に型にはめることはありません。
全国に「郷土うどん」はたくさんあります。それには2つの系統の《うどん》があります。
それを述べる前に、麺類発祥の国は中国であることを認識していなければなりません。その中国麺が本格的に日本に伝わったのは鎌倉中期です。圓爾という留学僧が南宋から点心料理を日本の寺社に伝えようとして持ち込んだのです。しゃれた外来食で゜すから、当初は京の大寺院で振る舞われていました。それが、室町時代の後期ぐらいから、全国の寺社に伝わっていきました。
そういう視点からすれぱ、圓爾ゆかりの承天寺由来の《博多うどん》、総持寺由来の《氷見うどん》、水澤寺由来の《水沢うどん》などは麺史上からも納得できる《うどん》だと思います。これが歴史遺産的な食べ物が土着した郷土食です。しかし、歴史や物語は過去史がなければならないということはありません。現在、ただ今からでも歴史は作れます。それが「郷土愛」に支えられた郷土食です。これが第2の系統の郷土食ですが、たいていはこれに当てはまります。
この点をソバリエのAtさんは、「都会食には型があるけど、郷土食には型がない」とある誌で述べておられました。私もその通りだと思います。江戸蕎麦は商品ですから、正統な江戸式の打ち方で作った蕎麦です。一方の郷土愛に支えられた郷土食は家庭食が広まった食べ物ですから、特別の型はありません。ただし、郷土愛に支えられないと消滅します。前述の戸隠の「ぼっち盛り」を現代までも大事にし続けたからこそ、「ぼっち盛りの戸隠蕎麦」と言われているわけです。これも郷土愛の一つです。ですから、率先して武蔵野の人が《武蔵野うどん》は美味しいよと言って食べ続ければ、しっかりした郷土食になることは間違いないと思います。
☆《武蔵の、うどん》の例
ここで『聞き書』から《武蔵のうどん》の作り方をご紹介しておきます。お断りしますが、同書には近年の《武蔵野うどん》の言葉は出てきませんので、作り方では《武蔵の、うどん》としておきます。
『東京都』
・小麦粉3升、卵2~3個、やまと芋か長芋片手、塩3抓み、水1升2号。延し板の上に生地をのせて布を掛け、上から体重をかけてギュッギュッと踏みつけ、生地が十分なめらかになるまで繰り返す。
付けつゆは、煮干や鉋で削った鰹節に醤油。
『埼玉県』
・うどん粉1升、塩1摑み、ぬるま湯、布巾で包んで30分寝かせる、両足で踏み、麺棒で延す。
付け汁は煮干で出汁を取り、醤油で味を付ける。
・うどん粉1~3升、塩1摑み
付け汁は。煮干の出汁と醤油で濃いめの汁。
・うどん粉1斤、塩半摑み、ざっと丸め、硬めに丸く捏ね上げて20分寝かせる。
呉座に生地を挟んで足で踏み。麺棒で延す。
付け汁は、鰹節で出汁と醤油。
☆《武蔵の、うどん》と《武蔵野うどん》
最後に、「武蔵野うどん回り」の仮のまとめをしておきたいと思います。
《武蔵の、うどん》も《武蔵野うどん》も東京都と埼玉県にわたる話です。
そのうちの埼玉県は東京都、大阪府に次いで麺類店が多いクニです。ですから、都・府の大都市以外の県のなかでは蕎麦・饂飩がもっとも盛んなクニであることは間違いありません。
ですが、その始まりがいつからなのか明確なことは分かりません。武蔵野開墾後から柳久保小麦が人気になった少し前あたりからかと思います。
また、東京都・埼玉県の《うどん》は『聞き書』に見られるように多様の呼び方が各地にあることから仮称《武蔵の、うどん》というべきものかと思います。 ただ、材料は柳久保小麦を挽いて、手打ちで作り、ぼっちに束ねるか、野菜ととも煮込んで食べていたことはほぼ共通だと思われます。しかし現在の硬さはいつごろからなのかは不明です。
そうした《武蔵のうどん》の中から近年《武蔵野うどん》がブランディグしてきたのだと思います。またその功罪があります。功は、全国的に打って出るという栄光が手に入ることです。罪は、元来郷土食としてあるべき姿=自由さが消失し、型にはめられてしまうことです。《武蔵の、うどん》の呼び方が異なっていたように大里には大里の、武蔵台には武蔵台のうどんがあったはずですが、にも関わらず、一つの型にはめられ、規格以外は消滅の危機ということが生じることです。それは郷土食のあるべき姿ではないと思いますが、いかがでしょうか。
線引きしないで、両方が共存できる関係、碧野圭さんの「蕎麦とおもいやり」の結末もそういうことになっていると受け取りましたが・・・。
地図はネットより
エッセイスト ほし☆ひかる