第275話 不思議な話:慶喜残月 ― 下の巻
婿 様 の 神 隠
次は「婿様の神隠」の話だという。
――― 慶喜さまには、五人の男子と七人の女子がご健在でございました。
そのうちの七女浪子さまのご主人松平斉さまが神隠にあわれたというお話は本当でございます。
斉さまの、父君は美作国津山藩の第八代藩主松平斉民さまでございますが、斉民さまの御父上さまは第十一代将軍家斉さまでございました。
維新後には、津山松平家は兄君の康民さまが家督を継がれ、斉さまは分家して男爵となられたのでございます。
浪子さまと斉さまのご結婚は、人も羨むほどご円満だったため、浪子さまはすぐに身籠られました。
ですが当時、斉さまは東京帝大の理学部で植物学をお勉強なさってらした学生さんでしたので、中根岸のお屋敷から毎日人力車で本郷まで通学されていました。
ところがある日のことです。斉さまが大学に行かれるために帝大のお帽子を被って玄関にお出になられた丁度その時、ある高官が馬車でお屋敷に乗り付けたのです。玄関脇にはいつもの通りに俥夫たちが待っていましたが、その俥夫たちが言うには、斉さまが玄関先の敷板に下りられたのと、高官が馬車から下りたのはほとんど同時だったそうです。
高官はお父上に緊急の御用でもあったのでしょうね。お待ち申していた家扶や女中には目もくれずに慌ただしく足を運ばれたそうです。
そのため斉さまが、邪魔にならないようにと人垣をすり抜けて外に出られたことは、並んでいた者たちが見ていたことなのです。そうでしょう。学生服をお召しになって帝大の帽子を被った方といえば斉さましかいらっしゃいませんものね。
皆は、お客である高官が屋敷の中へお入りになるや、ぞろぞろと奥へ引き上げます。そこへ、一人の女中が何気なく振り返りますと、玄関前にまだ俥夫が待っているじゃありませんか。
「あら、どうしたの」って訊いたんですって。
すると俥夫は「先ほどから、若さまをお待ち申しておりますんで」と言うので、その女中は驚いて奥に入っていた家扶を呼んできたのです。
家扶もまた学生服姿の斉さまのお姿を目にしているものですから、「莫迦を言うな! 若さまは先程ここからお出ましになってるじゃないか」と叱りました。
俥夫も負けておられません、首がかかっておりますもの。「いいえ、まだ奥からお出ましになりません。」
「バカ! お前、何を寝とぼけている!」
言い合う声を聞いた先程の女中たちも戻ってきて、「お姿は、たしかに見た」と証言しますから、俥夫もかないません。
「じゃあ、今日にかぎって歩いて大学へ・・・」と言う者に対して、「それならそれでお言葉をたまわるはずです。私もご奉公に上がって十年、見たものを、見ないなど申し上げる訳がござんせんでしょう」と言い返しますが、だんだんと声が落ちてきて、最後には責任感からか、下を向いてしまうしまつでございます。
ここにいたって、事は重大であることを皆が思い始めました。
さっそく家扶の指示にしたがって、女中、下男、俥夫の全員がお屋敷の中、お納戸、庭、そして本郷の帝大への道もすべてお捜し申しましたが、斉さまのお姿は見当たりません。
帝大へ走っていた俥夫も帰って来て、「大学の教室まで参りまして、先生にお尋ねいたしましたが、今日は若さまはお見えなっていらっしゃらない」と言われたというのです。
お義父上さまは誠実なお方でございましたので、ご懐妊中の浪子さまをいたわり、「お前は早くお休み」とおっしゃってくれたそうです。
それにしても、若さまは出産の日までを数えておられたといいますから、まったく訳が分かりません。
夜になっても、若さまはお戻りにならないのです。もう松平家は上へ下への大騒ぎです。ですが、あまりにも突然のことに ―「神隠!」― 誰も口には出しませんが、そうとしか言いようがありませんでした。
ただ一方では、ご専門の植物採集に、お道楽を兼ねて上野のお山にでも行かれたのだろうという軽い事態を期待する声がないでもありません。それでも、一週間経ってもお帰りがございませんと、「それじゃ、きっと遠くの関東のお山にでも」と言う者もおりました。
こうした事情は小日向の慶喜さまにも、また千駄ヶ谷の徳川宗家にも伝えられ、警察の上の方にも内々のうちに知らされて極秘裏に捜査が行われました。
ただ、新聞報道だけは抑えました。お腹にいらっした赤ちゃんが男の児であれば、将来の爵位のためにおよろしくありませんからね。
三か月、半年と、斉さまは行方不明のままでした。皆は若さまが亡くなった、なんていうことは決して思いたくありません。「お若い斉さまのこと、ある日、ふっと元気に帰ってこられる」と微かな期待をもつしかありませんでした。
そうしたなか、翌年に浪子さまは無事、ご出産なされました。お生まれになられたのは玉のような男のお児さまでした。それが斉光さまでございます。
行方不明というのはほんとうに割り切れないお気持だと思います。浪子さまは、時々ご実家のこのお屋敷に顔をお見せになることもございましたが、慶喜さまはお嬢さまのお顔を見つめるだけで、何もおっしゃることができませんでした。ですが、母にあたるお幸さんは、可愛い気があって気さくな明るい方でしたから、浪子さまもお顔を合わせるとホッとなさっておられました。
その後、浪子さまはご再婚もなされず、斉光さまお一人を守って、学生時代の斉さまのお姿を抱いたままお一人淋しく一生を終えられました。ただ、斉光さまが、水戸の分家徳川昭武子爵のお嬢さま直子さまとご結婚なさったのをご覧になった後に亡くなられたのがせめてもの、救いだったのでしょうか。
そう言うと、アサさんは急に黙ってしまった。すると、それが合図だったかのように、屋敷の樹の大きな枝が弓成りになるほど、物凄い風が吹いてきて、私は吹き飛ばされそうになった。
気が付くと、私は国際仏教大学の庭にある椅子に一人で坐っていた。
そう、ここは昔の徳川慶喜邸の跡だった。
そのときも「聞きたいことがあったら、いつでもいらっしゃい」。そう言うアサさんの声が耳に届いた。私は夢から覚めたようにして立ち上がって歩き出した。
参考:徳川慶朝『徳川慶喜家の食卓』(文春文庫)、遠藤幸威『聞き書き 徳川慶喜残照』(朝日新聞社)、堀井家菩提寺大松寺資料、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』(東洋文庫)、徳川慶朝様講演「徳川慶喜家の食・写真・建物」(平成25年6月1日、国際仏教大学院大学)、松尾正人氏講演「徳川慶喜と渋沢栄一」(平成25年6月16日、渋沢栄一資料舘)、安田貞男『駿府 手打蕎麦』(調栄社)、司馬遼太郎『最後の将軍』(文春文庫)、ほしひかる筆「小説 江戸人紀」(江戸東京下町文化研究会のブログ)
〔☆ほしひかる〕