📅 2026/07/22 執筆者:ほしひかるの蕎麦談義

第982話 貴重な深大寺


 14期の深大寺そば学院が開講しました。
 そこで、私は深大寺というのは、蕎麦にとってたいへん貴重な存在です。
 それゆえに、当そば学院で学ぶ人たちは幸せなのです、と申し上げました。
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 「深大寺蕎麦」と言いましても、それには三つの意味があります。
 一つは、穀物としての「深大寺在来蕎麦」
 二つは、深大寺門前に在る20軒弱の「町方蕎麦店の蕎麦」
 三つは、江戸時代に深大寺で振舞われていた「寺方蕎麦」

 このように、在来蕎麦、寺方蕎麦、町方蕎麦がそろっている地区は他にありません。

一、深大寺在来
 古の武蔵野では、蕎麦 → 稗 → 小豆 → 里芋の輪作を行っていたと思われます。それは、昔の國名の無邪志國胸刺國武蔵國からも想定されます。ムサシの「サシ」や他に「サス」という語は、古代朝鮮語で焼畑の意味に由来するといわれています。古刹祇園寺のある調布市佐須町も、所沢の小手指もそうです。
 したがいまして、古代の武蔵は森林地帯だったのでしょうが、開墾されて、武蔵野と化し、焼畑農業が行われていたのです。その武蔵野で馬が飼われ、武士が誕生し、鎌倉・室町・江戸と武士の時代が続いたのです。
 江戸時代になりますと、上野寛永寺が力をもつようになります。その寛永寺五世公弁法親皇(在職:1690年~1714年)が、深大寺産の蕎麦を口にされ、「風味が他の蕎麦とことなっている」とおっしゃったと『蕎麦全書』にむ紹介され、著者の友蕎子自身も「その実充満して白く、味至極甘美と述べています。
 そもそも、一帯を大きく流れていた古多摩川は大雨の度に氾濫し、「暴れ川」の異名をもっていました。それにも関わらず、洪水を確実に回避できる砦地区がありました。それが深大寺地域です。あたかも水神の深沙大王に守られているかのような安全地帯でした。
 それゆえに、江戸時代刊の『蕎麦全書』に記載されましたように、深大寺の裏手の丘(現在の都立神代植物園辺り)の二町ぐらいの畠で蕎麦栽培することが可能だったのです。
 以来、深大寺付近で収穫した蕎麦は「深大寺蕎麦」として江戸で有名になりました。ただ、遺憾ながら、明治になりますと、政府の西欧化政策の影響で蕎麦栽培が廃れることになります。
 その「深大寺の蕎麦を何とか復元したい」と立ち上がったのは88世深大寺山主の張堂完俊師や「門前」の浅田修平たちでした。彼らは地元で蕎麦栽培を続けてこられた相田辰吾氏の指導を受けながら種を播き始め、年末の「深大寺蕎麦を味わう会」の招待客に振舞うようになったのです。
 こうして、平成31年4月、深大寺蕎麦(深大寺在来種)はJA東京中央会に登録されるまでになりました。
 なお、現在は深大寺南町4丁目と2丁目の約2000㎡の土地を借り、約70㎏の蕎麦を収穫しています。

二、深大寺の寺方蕎麦
 寛永寺五世公弁法親皇が1690年~1714年の在職期間に、深大寺産の蕎麦を口にされた記事はあまりにも有名ですが、単に深大寺産の蕎麦の話ではなく、背景に寺方蕎麦の文化があったことたは否めないでしょう。
 ですから、1798年の川柳「棒の手を馳走に見せる深大寺」(『柳多留』二十七扁)は、明らかに深大寺の蕎麦振舞の情景を指しています。
 そうした状況を絵にしたのが、神田の庄屋齋藤幸孝と絵師の長谷川雪旦、深大寺の接待茶屋で、住職から蕎麦を振舞われているです。時期は1815,16年ごろと思います。
 さらに、寺方蕎麦を裏付ける史料があります清水徳川家の広敷用人(大奥の取次役)村尾正靖嘉陵の江戸近郊の紀行文『嘉陵紀行』(1812~35)の中の挿図です。
そこに深大寺の門前に水車小屋があったことが、描かれているのです。

 また、天保12(1841)年の『深大寺本寺及末寺分限帳』に、「門前地借四軒 内水車壱ヶ所此地代金壱両」とあります。
 つまり、門前で深大寺所有の水車が回っていて、ご接待のための蕎麦粉を挽いていたことが証明されたわけです。その水車小屋跡が現在の蕎麦屋「門前」です。

三、深大寺門前の町方蕎麦屋
 現在この地区には20軒弱の蕎麦屋が営んでいます。
 江戸末期ごろは、蕎麦も出す茶屋が一軒あるだけで、いわゆる「蕎麦屋」というものはなかったと聞いています。
 それから日本は
 それが、このような状況になったのは、昭和28年ごろに数軒の蕎麦屋が開業したのが始まりで、その後に松本清張の『波の塔』の小説・映画で深大寺地区が注目されてからのようです。

江戸ソバリエ協会理事長・深大寺そば学院學監
ほし☆ひかる

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