第342話 ハレのお重

     

雪旦絵雪旦画☆深大寺蕎麦

全景1再現☆深大寺蕎麦

寺方蕎麦再現☆深大寺蕎麦

第341話では二重箸で「お重」をご馳走になったことをご紹介したが、ここでちょっと疑問が生じる人もおありだろう。
それは、われわれ日本人はなぜ「お重」をご馳走だと喜ぶのだろうか? なぜ「行楽重」に胸を躍らせるのだろうか? ということである。

それを考えるために、有名な『江戸名所図会』(長谷川雪旦画)の食事の場面を見てみよう。そこには様々な食事の場面が描かれてある。

*日常の食事
大森・品川の浅草海苔業者の藁葺の家で家族3人がお碗で飯を食べている。
*野良仕事の昼食
金澤文庫御所ケ谷辺りの農民一家5人が筵の上で弁当を食べている。お重の中はおにぎりだろうか。

☆正月三日・愛宕山円福寺・強飯式
円福寺の寺主はじめ10名の僧が並んで座っている。愛宕権現から毘沙門天の使いと称する者が、素襖に昆布の兜、擂粉木と長太刀に大杓子で、山下の円福寺にいる寺僧に飯を強要するという儀式である。
☆正月十七日・王子村・十八講
毎年1月17日王子村の農家が集まって金輪寺の住職を招く、宴も半ばになると当番の者が、杵・杓文字・俎板の3つを持って中央に出て、大声で「飲めやよいやさ」と囃し、一同も楽しそうに声を合わせて大盛の飯を勧める。
☆八月一日・新吉原仲野町・八朔の儀式
8月1日は家康が江戸入りした日として江戸城では儀式を行う。それに倣って吉原では白無垢の遊女の行列が行われ、各遊女屋では宴会が行われている。

○河崎宿・河崎万年屋・奈良茶飯
浅草待乳山聖天の門前にできた一膳飯屋「奈良茶飯屋」は江戸初期に誕生したわが国最初の外食屋である。それからすぐに蕎麦屋ができて、わが国の外食産業の花が開いた。この絵の「河崎万年屋」は一膳飯屋から宿場一の旅籠に大きくなった店だという。
奈良茶飯とは、小豆や粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだご飯で、江戸へ単身赴任して来た男性に評判をとった。
○金六町・茶店
銀座8丁目にあった待合茶屋「しがらき屋」の光景。この茶屋と「玉の井」が当時もっとも繁盛していた茶屋だった。
○生麦村・茶店
ここも「しがらき屋」である。茶菓、一膳飯、酒がふるまわれている。梅干、生姜が名産だった。
○金沢八景・旅亭東屋
江戸時代から昭和30年まで瀬戸橋にあった旅館。この旅館に、伊藤博文,金子堅太郎,伊東巳代治,井上毅らが泊り込んで、「大日本帝国憲法」の構想を練ったことは今や広く知られている。

※春・品川・汐干
江戸時代は、ここ品川と深川の洲崎は潮干狩で有名だった。舟上で作り立ての料理や用意した弁当を食べている。
※夏・不忍池・蓮見
文人たちだろうか? 江戸第一の蓮池の蓮を見ながらの料理茶屋で食事会。食してるのは蓮飯だろう。
※秋・深大寺・蕎麦
「深大寺77世の覚深が、神田の名主であり『江戸名所図会』の作者である斎藤幸孝と絵師の長谷川雪旦を深大寺蕎麦でご接待している」として小説を書き、さらにはその模様を再現してみた。
※中秋・龍眼寺・庭の萩
押上(亀戸)の萩寺庭で萩を観賞している人、床几で酒や料理を食べている人。
※晩秋・海晏寺・紅葉見
海晏寺の紅葉は名所として知らせれていた。庭には床几の上で弁当を広げながら、句をひねっている人がいる。
※冬・深川二軒茶屋・雪中遊宴
富岡八幡宮境内にある高級料亭「二軒茶屋」に、主人、深川芸者、太鼓持が、主賓の力士に大酒杯で酒を呑ませている。鯛の尾頭も見事でな遊宴だが、誰一人雪見をしていないところが、豪遊の皮肉さを表現しているのだろうか。

この雪旦の絵から見てとれることは、われわれ日本人は年中行事、行楽、旅行を通して、外で、しかも自然の景色の中で食事をとることが大好きだということである。そして、そのハレの日のためにお重、弁当を工夫してきた。
それも、ご飯というものが、温かくても美味しい、冷たくても旨いという実に都合のよい日本米を主食としているために成立可能なことだった
ただ、A)各寺社の年中行事や大山、伊勢参りなどは庶民の行楽であったが、B)高級茶屋で、蓮見、花見、雪見など風流な遊びをする多くは文人、僧侶、豪商、武士、医者といった知識人たちであった。

江戸の食文化を支えていたのは、こうした人たちの消費者であったことは、現代の構造と同様である。

 

〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆  ほしひかる