第147話 東西の〝コシ〟

     

蕎人伝⑱ジョヴァンニ・デル・トゥルコ

  「打ち立てはありがたいな。蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのはたのもしくない」。

 これは夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』に出てくる台詞だが、ほんとに「延びた蕎麦」なんて食べたくもない。

 しかしである。麺の〝〟を食感として崇めているのは、日本とイタリアぐらいである。信じられないだろうが、他の国では延びた麺を平気で食べている。 

 日本人は〝腰〟を蕎麦の茹で方で、イタリア人はパスタで覚えたのであろう。

 蕎麦は、中に含まれるタンパク質が水溶性であり、おまけにそのタンパク質は小麦粉のように網目構造をもっていないので、茹でたあとは麺の中心まで均一に水分がゆき渡り、全体が柔らかくなってしまう。だから、〝腰〟のある蕎麦を茹でるには、沸騰させた湯をたっぷり使って、蕎麦の中心部まで熱を一気に加え、その後は冷水で一気に冷やした方がいい。こんな茹で方を日本の蕎麦職人たちはいつのころからか経験で覚えたのであろう。

 一方の、イタリアのパスタは、音楽家であり、アマチュアのシェフでもあったジョヴァンニ・デル・トゥルコ(1577-1647)という人がパスタの美味しい茹で方として〝アルデンテ〟を勧めていたらしい。

 ジョヴァンニはマルコ・ダ・ガリアーノ(1582-1643)という 初期オペラの作曲家に師事し、トスカーナ大公コジモ2世(在位1609-21)の下で音楽監督を務めていた。それに彼はフィレンツェの名家出身だったから食通であり、料理もプロなみだった。われわれでいえば素人蕎麦打ち名人級といったところだろう。

 ただ、ジョヴァンニがアルデンテ〟の料理法を示したとしても、17.18世紀ごろのほとんどのイタリア人は茹ですぎのパスタを食していたというのが現実だったようである。

 とにかく、そんな話を耳にしたので、〝アルデンテ〟の発見者・ジョヴァンニの、パスタのレシピを知りたいと思って、探したが簡単には見つからない。イタリアに行けばあるのかもしれないが、あったとしてもそれはたぶんイタリア語で記してあってチンプンカンプンだろう。

 しかし、せっかくジョヴァンニを知ったのだから、パスタを食べるときは彼が作った曲を聞きながら頂くというのが礼儀だろう。そう思って、今度はジョヴァンニの曲を探してみた。

 ところが、銀座の有名なCD店、中古のCD店、近くの図書館などを当たってみたが見つからない。半年以上かけてやっと探し当てた所が、みなと図書館だった。その探し物を手にしたとき、まるで憧れの女優に出会ったように嬉しかった。それが「美しい瞳よ(Occhi belli)」という歌曲である。ナイジェロ・ロジャースという人のテノールをチェンバロ、オルガンの演奏が支えている。言葉はわからないが、山の湖の畔に立って誠実な思いで謳っているような雰囲気のする、3分21秒の短い歌曲であった。作曲は1617年 ― 日本では徳川2代将軍秀忠の世。あの慈性が江戸の常明寺で蕎麦切を食べたころ(1614年)だ。

 そんな時代の古曲を聞きながら、パスタを食べる人間なんてイタリアにもいないだろうと思うと、自分でもおかしかった。

  イタリアといえば、北方のロンバルディア州には《ピッツォケッリ》という蕎麦パスタがあるらしい。蕎麦はイタリアへフランス・プロヴァンス地方を経由して9-10世紀ごろに入ってきた。もっとハッキリいえば、当時のプロヴァンス国が、この地方を侵略した時に持ち込まれたという。

 その前史は、サラセン人つまりイスラム教徒がヨーロッパに持ち込んだと伝えられている。だから、フランス語では蕎麦をサラザン(sarrasin)、イタリア語でグラノ・サラチューノ(grano saraceno=サラセン人)という。

 

 蕎麦パスタについて言えば、料理研究家の林幸子(江戸ソバリエ・ルシック)さんが創作してくれた《蕎麦パスタ+真桑瓜》に大いに感動した体験がある。それを口にしたのが夏の7月という時季だったから、シンプルさが嬉しかったが、それなのに微妙な魅惑の味だった。それが今でも舌に残っている。

 《蕎麦パスタ+真桑瓜☆林幸子 作》

 

 話をジョヴァンニ・デル・トゥルコのことに戻すと、西洋人ではあるが、〝コシ〟という食感を理解できる民族の代表として、彼を「蕎人伝」のシリーズに加えた次第である。 

参考:ジョヴァンニ・デル・トゥルコ美しい瞳よ」(POLYDOR『CANTY A MOROSI』)、池上俊一『世界の食文化イタリア』(農文協)、アルベルト・カパッテイ、マッシモ・モンタナーリ『食のイタリア文化史』(岩波書店)、池上俊一『パスタでたどるイタリア史』(岩波ジュニア新書)、平松玲『イタリア美味遺産』(新潮社)、夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』(大倉書店)、『慈性日記』、

蕎人伝シリーズ(「蕎麦談義」第147、146、144、134、132、106、105、104、102、99、91、88、87、82、70、65、64、62話)、

 〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる