第348話 スローでいきましょう!

     

~ 江戸ソバリエも『百円の恋』も ~

島村菜津

私は、一番気になっている書物を本棚の最前列に並べている。というのは、背表紙がいつでも目に入って、書いてあることを思い出せるからだ。
たとえば、今すすめている江戸ソバリエ認定事業に関係する書物では、
・道元『典座教訓』『赴粥飯法』
・岡倉天心『茶の本』
・熊倉功夫編『柳宗悦茶道論集』
・夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』
・正岡子規『くだもの』、
・谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
・和辻哲郎『「いき」の構造』
・柳宗悦『民藝の趣旨』
・羽仁進『ぼくのワイン・ストーリー』
・島村菜津『スローフードな人生!』『スローフードな日本!』
などである。

そんな気持をもっているくらいだから、できれば著者にお会いしてみたくなるものだが、残念ながら鬼籍の人が多い。
もちろん、現在ご活躍中の方もいらっしゃる。
そのうちの熊倉さんは、和食文化国民会議の会長だから、会員として時々お会いしてお話を伺っている。
島村さんは、グンとお若いながらなかなか機会がなかった。それがあるエッセイ募集の表彰式のときにやっとお会いすることができた。
その募集エッセイは「あの日あの味」というテーマだったが、審査員のお一人に島村菜津さんのお名前があったから、私も「真夏のホット珈琲」という駄文を書いて応募した。その結果、すれすれで入選し、晴れて島村さんとお会いすることができた。

004【「真夏のホット珈琲」収載】

彼女にお尋ねしたいことは、たくさんあった。
・東京芸大ご出身なのに、なぜ『フィレンツェ連続殺人』を上梓?
・『フィレンツェ連続殺人』から、なぜ「スローフード」へ?
この「なぜ、スローフードへ?」を伺って、「スローフード」運動のことを良く理解したかったのである。
とはいっても今日はパーティである。一人占めするわけにはいかない。立食の料理をご一緒に頂きながら、文字通り立ち話をしただけだ。
そんな短い会話の中で、「『フィレンツェ連続殺人』を書いたから、『スローフード』がある」とおっしゃっていた。
その『フィレンツェ連続殺人』には、芸大ご出身の著者らしく、容疑者が描いた絵に関心を示されていた。でも、料理については、本に登場する記者の奥さんの家庭料理が書かれているていどで、『スローフード』への道筋は見えてこなかった。
だから、もしかしたら丹念な取材の延長にイタリアの「スローフード運動」が見えてきたのだろうかと、勝手なことを想ったりした。

平成12年に島村菜津さんが日本に紹介した「スローフード」「スローライフ」の考え方は、
現代の鉄の檻「ファーストフード」=【均質化】から脱して、
⇒「スローフード」=【多様性】を守り、
= 人間性の回復を図ろうというものである。

私が江戸ソバリエ認定事業を考え始めたのもそのころだったが、「スローフード運動」の一つに「お皿の外のことを知ろう」とあった。
同じことを日本の食に大きな革命を起こした道元も述べていた。著書『赴粥飯法』では「彼の来処を量る」とある。つまりは食について考えろと言っているのだ。
江戸ソバリエ認定講座を、1)蕎麦打ち2)食べ歩き3)蘊蓄を学ぶの三つで構成しようと考えていた私は、この「お皿の外のことを知ろう」と「彼の来処を量る」と書かれていたことによって、とくに3)蘊蓄の設置に自信をもった。そして考える方法として、卒業論文方式をとった。
しかしながら、インターネットが浸透する中、「ネットで受講できるようにすればいいじゃないか」「○×式の試験にすればいいじゃないか」という声をだいぶ頂いた。
でも、それはまさに均質化に乗るだけだ。とくに「五感、六官を磨こうという食べ物の世界」では目的と逆行することになるではないか。
ということが、分かっていただける日を待っていたところ、今日では「食べ歩きと蘊蓄講座と論文提出は、数ある蕎麦講座の中で江戸ソバリエの特色だ」と言っていただくようになった。

スローフード運動は当初から、ファーストフードは産業全体、教育、労働、家庭、政治にいたるまで社会のあらゆる側面に浸透するだろうと予言していた。
それでも、そのころはファーストフード批判だけでよかったが、現代のようにコンビニ全盛になると、ファーストライフというウィルスは人間を非人間的な方へと追いつめようとしている。労働が均一化された単純労働者は批判精神や考える力が奪われるからだ。
たぶん心ある人は、文明が発展すれば人間は幸せになるはずなのに、どういうことだ? とお思いの方もおられるにちがいない。
話題の映画『百円の恋』でもコンビニ店員の虚しい人生が背景に描かれてある。内容は、鉄の檻から脱そうとする女ボクサーの物語。きっかけは恋であるが、身体を酷使し、殴られ、血を流しての脱出劇である。最後は、試合に敗れてボロボロになった彼女が、「勝ちたかったよ」と恋人に泣きつく。そこで彼女は恋を勝ち取る。
映画を通して感じることは「痛み」だ。その痛みを知れば、時々耳にするコンビニ不毛論に賛同したくなる。
ト、大仰なことまで言わないでも、好きなお蕎麦をじっくり学べば、スローライフが楽しめる。
島村菜津さんに頂いたサインも「ずっとスローでいきましょうね」と書いてあった。

参考:道元『典座教訓 赴粥飯法』(講談社学術文庫)、島村菜津&マリオ・スペッツイ『フィレンツェ連続殺人』(新潮社)、島村菜津『スローフードな人生!』(新潮文庫)、島村菜津『スローフードな日本!』(新潮文庫)、武正晴監督『百円の恋』、月刊「望星」編集部編『私の思い出。あの日 あの味』(東海教育研究所)、平成28年3月26日『私の思い出。あの日 あの味』授賞式、

〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる