第136話 3月16日 蕎麦切の日
季蕎麦めぐり(四)
3月16日(新暦)を「蕎麦切の日」と言ってもいいかもしれない。理由は、蕎麦通の方ならお分かりであろう。
『番匠作事日記』とよばれている、木曽の定勝寺で発見された文書の、天正二年三月十六日の条に記されていることが、日本における「蕎麦切」の初出だからである。
【木曽定勝寺 ☆ ほしひかる絵】
文書には次のような記述があった、と郷土史家関保男が指摘した。
1574年3月16日(陰暦)「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」
これを私なりに解説してみよう。
まず、定勝寺は木曾氏の禅寺である。関連して、そのころの時代背景を述べれば、一帯の領主は木曾18代目義昌。木曾氏はもともと信濃国守護小笠原氏に従っていたが、武田氏が力をつけるや信玄の娘を妻に迎えて武田と同盟を結んだ。ところが、1573年に信玄が急死、信長は将軍足利義昭を京から追放し、天下は信長を中心にして動きはじめようとしているときであったことをご承知いただきたい。
日記にある「千淡内」とは、「千村淡路守豊知の内儀」のこと、また千村氏は木曾氏の血縁で、重臣である。
「金永」が、何者かは不明だ。僧にしては「金」の字は珍しい。また、他に与太郎、彦二郎、彦七などの名があるから、そのまま「金永」と呼んでもいいだろうが、「金○永○」の略の可能性がないでもない。
とにかく、陰暦2月10日に開始した仏殿修理が、陰暦3月16日に完成したのであるが、時代は風雲急を告げようとしているときだった。男たちは忙しかったのだろうか、千村淡路守の夫人が代理となって蕎麦を袋一ツ寄進し、金永が蕎麦切にして工事関係者に振舞ったのである。
これにより、日本における「蕎麦切」の初出年月が明確になったのであるが、それ以上の衝撃を与えたのが、蕎麦切発祥説に関する問題であった。
ご承知の通り、これまでは蕎麦切発祥の地論争は、主として「木曾本山宿」か、「甲州天目山」かのどちらか、ということで展開してきたむきがある。
「木曾本山宿」説は、彦根藩士・森川許六が芭蕉の十三回忌(1706年)に選した俳文選集『風俗文選』の中で雲鈴(元・盛岡藩士)という俳人が「蕎麦切ノ頌」に書いた文に起因する。また「甲州天目山」説は、尾張藩士・天野信景の随筆『塩尻』(1782年)で記していることによる。
この雲鈴も、信景も、それなりの知識人であったところから、その説は信憑性が高いとされ、後世の人たちは二人が投げた網の中でのみ論争してきた。
ところが、木曾須原宿の「定勝寺文書」が、この風評に水を浴びせた。そのことをまとめれば、こうなる。
◎本山宿でも天目山でもなかった。→ 両説は否定された。
◎本山宿も須原宿も同じ木曾街道であるから、一見して木曾説に有利なようだが、そうはならなかった。
◎それは「街道」という機能に注視されたからであった。現在の目で見れば東海道が日本の幹道のように思えるが、それは江戸時代からであって、それまでは中山道(木曾街道)が東国への幹線道路であった。しかも須原宿は京都寄りである。→ とすれば、この度の事実とこれまでの説を結ぶと、(京) ⇒ 須原宿 ⇒ 本山宿 ⇒ 天目山 ⇒ (江戸)となり、木曾街道は京から江戸への中継地点でしかなかったことが、想定されるようになった。
◎この街道機能、つまり人、物、金、情報が流通していることを証拠だてる話や、木曾という所が都と深い関わりのあったことを裏付ける話はいくらでもある。
*たとえば、文書である『番匠作事日記』の「番匠」のことであるが、「匠」は大工、「番」は交代で都に上ること。つまり都に上って宮殿建築に関わる宮大工のことを指す。
*また須原地区には、「須原ばねそ♪」という郷土民謡踊りが残っているが、これは嘉慶年間(1387~89)に都から伝えられたとされている。その碑が定勝寺境内に建っているから、象徴的で面白い。
◎つまり、街道=幹線とは、人、物、金、情報(文化技術)をA地からB地へ通す機能をもっているが、それらは吸引力が強くなった都市すなわち江戸へと吸い寄せられる性質のものである。なぜなら、都市とは人が集まって、経済活動を刺激的に行う地だからである。
◎事実、江戸の常明寺で1614年に蕎麦切を食べたことが『慈性日記』に記録されていた。
そして、ときには街道沿いにそれらが根付くこともあるだろう。それが木曾の蕎麦切である。
というわけである。あとは、京都の関係資料が整理されれば、京 ⇒ 木曾街道 ⇒ 甲州街道 ⇒ 江戸、という「蕎麦街道」が仮説ではなく実証されることになる。
これはわれわれ「江戸ソバリエ」が推している説であり、言葉を換えれば、クリストフ・ナイハード氏が述べている「(ヌードルは) 日本では寺院から都市に伝わった」(第125話)ということでもある。
注:2月3日は「江戸蕎麦切」の日、3月16日は「蕎麦切」の日
参考:季蕎麦シリーズ(第129、130、131話)
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕